にっこりと、聖母の如き微笑を浮かべる女性、柳沢月獅にどういう事なのかと詰め寄ろうとした夜独は次の瞬間口元を押さえて呻いた。
 …四人から漂う、凄まじいまでの酒臭に。

 

 

 

 

雪合戦

 

 

 

 

 

「貴…様ら、今まで一体何を…っ」

 

 押さえた手の間から矢張り呻くような声で詰問し、気付く。そうだ、さっきこの『天支』三大魔王の1人…ロキが「不毛な飲み比べ等よりも」とか言っていなかったか。
 そこから導き出される答えは明白だったが、それでも夜独は疑惑の眼差しを月獅へ向ける。その眼差しの先で、月獅はショールを羽織った肩を僅かに竦めて上品に笑った。

 

「ふふふ、そんな怖い顔をしないで。――3日前から、ロキの司令室で飲み比べをしていたの。けれど決着がなかなかつかないものだから、三人がスピリタルをジョッキで一気飲みした後にポカリスエットを同じジョッキで呑んでもらった、それだけよ?」

「んなっ!?」「うげ;」

 

 いかにも無害な顔をしてさらりと言われた台詞に、夜独は絶句しダードとルーン、それに桃華が驚愕の声を上げる。
 そんな年長組みの反応に首を傾げる他メンバーの中で、桜花が全員の内心を代弁した。

 

「あの…それってつまりどういう…?」

「スピリタルは、世界最高の度数を誇る蒸留酒だ。…火を近づけただけで炎上する。

「…え」

 

 一般的に、ウィスキーをジョッキで一気飲みなどすれば急性アルコール中毒で死亡することもある。というのは常識的に知られている事だろう。ウィスキーも蒸留酒だがそのアルコール濃度は40%から。それに対し、スピリタルの度数は96度である。数値にすればその危険度は顕著だろう。
 それを、ジョッキで一気飲み。しかも3日間呑み通した後に、である。普通ならば…否、どれほど酒に強い人間でも即死は確定である。大体スピリタルはそのアルコール濃度からカクテルのベースにされるのが主でそのまま飲む奴などほぼ皆無だ。

 

「え…えっと、でも、なんで、ポカリ…?」

「スポーツ飲料は水分の吸収を助けるだろう。」

「はい。」

「一緒にアルコールの吸収も助けるから、一気に酔いが回るんだ。」

 

 その意味と危険性は説明するまでも無いだろう。スピリタルを一気飲みした後にポカリを飲ませるなど、殺人の意思ありと判じられても文句の言えない行為だ。
 それが十分理解できたのだろう。朱禍を除く全員の顔がさっと青ざめた。

 

「月獅…さん?」

「ふふ、それまでは彼らも素面だったのだけれど…流石に酔ってしまった様ねぇ。」

「…ロキとレーヴァはそもそも人間じゃないから置いとくとしても…人間のシオンと月獅さんがなんで平気なわけ…?」

「あら、私は飲み比べには参加していないわよ?審判を頼まれただけですもの。」

 

 そうだとしても、この三人の飲み比べだ。相当酒に強くなければ匂いだけで意識が飛ぶだろう。と、いう以前に夜独達からすればこの三人に囲まれて三日も過ごせる事自体が既に奇跡だ。
 当事者達を除く全員が同じ心境で黙り込む中、

 

「なぁなぁ、」

 

 雪で視界の遮られた壁に両手をつけて、茜が眉をハの字に下げて振り向く。

 

「ほんで、カーラ達はどないなったん?」

「あ。」

 

 四人の登場があまりにもインパクトが強すぎて――――忘れていた。
 気まずい沈黙が落ち、誰もが硬直する中で3大魔王と月獅だけが動じない。

 

「それでは、お願いね?」

「「「御意」」」

 

 完全に面白がってる。3大魔王の反応に夜独達は思うが口には出さない。そも、コイツらに謹厳実直など求める方が愚挙を通り越して暴挙なのだから。
 彼ら彼女らが見つめる中、まずレーヴァテインが見えない壁に触れ、すぅ…と人差し指を水平に動かす。

 

「本来ならば別に口にしなくても別段構わないのですがねぇわたしは魔王でありわたしという存在そのものが魔力なのですし。けれどまぁ、それでは情緒に欠けますし、」

 

 笑みに揺れるイントネーションで、紡がれる声は金管楽器の澄んだ音色に似ていながら汚物で濁った泥川の底で塵が触れ合う音のようで、細く笑みの形を描く瞳は恒星のように煌いているのに深い枯れた井戸の底を覗き込むようで、 
 にぃっこり、と、三日月のように歪んだ唇から、音が、意味を持って魔力を帯びて理不尽なまでの力を宿して、
 紡がれる。

 

 

 

「開きなさい。望む場所まで。」

 

 

 

 音も無く、彼がなぞった部分に筋が入り楕円形の穴を穿つ。
 その穴は次の瞬間に人一人が余裕で通れる扉型の穴に形を変えて、しかしルーンやダードを除く面々は眉根を顰め、或いは首を傾げた。
 穴の中は、まるで溶かした銀を流し込んだような色と濃度を持っていて、しかもそれは純正なようでいて禍々しくて。
 レーヴァの言葉から推測するならばこれは“道”なのだろうが、壁と言われたほうがまだ理解できる風体だ。
 触れたら呪われそうだな、と、夜独は胸中で呟いた。

 

「…それは、通れるのか?」

「あっはっは、嫌ですねぇ道なんですから通れるに決まっているじゃあないですか。翠さんってば面白い事をおっしゃいますねェ」

「む、それは失礼した。…だが、見たことの無い形状の門だ。」

 

 言って翠は興味深気にしげしげとその“門”を見つめる。魔法使いとして、見たことの無い魔法やそれに類似したものは矢張り気になるらしい。――否、桜花の方はそれほど熱心でも興味があるようでもないので、それは真面目な翠の性質か。
 そんな翠に、レーヴァは「あぁ」と微笑を何かに気付いた子供のような笑顔に変える。

 

「成る程、貴方方の世界には転移の魔法が存在するわけですね?それは面白い。是非今度機会があれば見せていただきたいですねぇ。ですが、そんなに熱心に観察した処で無駄ですよ。」

「無駄とはどういう意味だ?」

「これは入り口と出口の間で魔界――別面世界(アストラルサイド)へ繋がります。ですから貴方方、特に生界だけに生き存在するような人間には向こう側の様子を視覚で認識する事は出来ません。まぁ所謂亀裂なんですよねこれって。」

「…亀裂?何のだ。」

「それは勿論世界のですよ。」

 

 あっけらかんと答えられたレーヴァの台詞に、急きつつも二人の会話を傍聴していた面々が息を呑んだ。
 ただし、レーヴァテインと同じ世界の住民であり大体の意味を理解しているルーンやダードはそれぞれ呆れたように顔を引き攣らせる。またそんな態々誤解させるような言い方を。

 

 生界と魔界は鏡面のように対極に位置しているわけではない。 
 騙し絵のように、或いは二枚の絵を重ねたように、同じ場所であり異なる場所に存在しているのだ。
 レーヴァのような精神生命体である彼らには、それが視えている。けれど二つは違う世界なので、片方の世界にいる時に見えるそれは当然ながらもう片方の世界の外皮。その外皮に力を加え捻じ曲げ亀裂を生じさせ穴を穿ち彼らは二つの世界を行き来する。

 

 世界に穴を開けるなど幾ら互いの間の壁が薄くとも大変な重労働で、だから下位の精神生命体であればそれだけで多大な力を消耗する事になる。
 しかも穴を――つまり世界と世界の境界を――越える際にはこれまた多大な負荷が全身を襲うので、力の弱い者は生滅する事すら有るのだ。
 尤も、レーヴァのような高位の存在にとってそれは真夏の日差しで肌を少しの間焼かれる程度のものでしかなく、だから物質の無い精神世界を経由し距離を縮小して移動する、などという芸当も可能で今もそれを実行しようとしている最中。

 

「っ、それは…大丈夫なのか?世界に穴を開けるなどというのは…」

「さぁ?だってわたし共にはどうでもいい事ですしぃ」

「ちょっと!!いい加減にしなさいよ性悪魔王っていうかもー時間無いんだからあんた黙んなさい炎大爆弾(エクスプロード)食らわすわよ。―――大丈夫、世界を隔てる壁っていうのはほっときゃすぐ再生するから。」

 

 不安を煽るように肩を竦めて言うレーヴァを叱咤し、後半は絶句した翠達に向けてルーンが弁明した。
 物質世界と精神世界というのはさっき言ったように密接していて、異なる世界と世界が触れたそこが溶け合って同じ世界になってしまわないようにまるでその温度差で凍りつくように壁が生じるので幾ら壊してもどうせ直ぐ新しい壁が出来るから心配など無用なのだ。ちなみに、現在は力を加え続ける事で再生を遮っている。

 

「詳しい説明は後でね。あと私も転移の魔法興味あるから理論とか聞かせなさいよ。って事でほらとっとと救助行きなさいよその為に出てきたんでしょーがあんたらは!!」

「いやぁははははは、相変わらずルーンさんはせっかちさんですねぇ」

状況理解できてないなら叩き込んであげるけど?

「ルーンさん落ち着いてっ;乗せられていますよ!」

 

 ワナワナと拳を震わせ詠唱を開始しようとするルーンをすかさず桜花が宥めれば、楽しそうに笑いながらレーヴァはロキを手招いた。
 此方も笑みを浮かべそれに応じ、舞台俳優の如く優雅な足取りで歩み出たロキはレーヴァテインが恭しく差し出した手を取る。

 

「では、行って参りましょう。」

「女神の子、我らが同胞を救いに?」

「えぇ、魔王たる我らが。」

 

 その言い回しに二人はさも可笑しげに肩を震わせ笑う。どうやらまだ酔いは冷めないらしい。
 本当に大丈夫かこいつら、と周りの面々は不安に駆られるが見守るほかにどうしようもない。この3大魔王が動こうとしているのにへたに此方が手を出せば不興を買いかねない。別段ご機嫌伺いをする謂れもないのだがこの面子に諸々のターゲットにされるのは御免なのだ。

 

 

 

 

「じゃあシオン君、手筈通りに頼むよ。」

Yes.キミ達こそ、ルカを傷つケないヨウ頼むヨ」

「解っているとも。」

 

 

 

 

 そういうわけで、漸く壁にしか見えない扉を潜り銀幕の向こうへ消えた二柱の魔王と見送る一人に、
 他の面々はむしろ自分達でどうにかした方が遥かに早く気苦労もしなくてよかったと激しく後悔したのだった。

 

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