Pioggia
〜雨〜





 喫茶『鳥籠』を経由して、アスタルテ人族の土地にある弧暮へと足を運ぶ。正確には、弧暮の町外れにある『鎖神』本拠地である豪邸に向かっていた。真佳に、真佳の彼氏からの伝言を届けるためでもあり会話するためだ。
 その日は雨が降っていた。
 だが、千恵美は傘を差さずに『鳥籠』から豪邸の玄関扉までの道を走っていた。用意周到な彼女らしくない失敗をしたのである。常時持ち歩いている折り畳み傘を学校に忘れてきたのだ。『鳥籠』の店主であり創造主である月村佐奈も傘を渡そうとしたのだが、千恵美はやんわりと断った。彼女は、他人に迷惑をかけることを無意識に避けようとしている傾向があるのだ。佐奈はよくそんな千恵美を見て一人呟く。千恵美に頼ってほしいと思ってるのは何も私だけじゃないだろうに、と。
 そんなことは露知らず、千恵美は玄関扉の前に逃げ込むように避難した。そこはちょっとした屋根があるので一息つくには丁度いい。
 一度息を吐き、ドアノブに手を伸ばす。そこで千恵美は躊躇した。今、自分は頭のてっぺんから爪先までずぶ濡れである。それなのに屋内へ入ってよいものかどうか、と。こんなことなら佐奈の言葉に甘えておけばよかったかもしれない。遠慮しておいて後で後悔するのはいつものことだ。千恵美は小さく息を吐いた。


「やっほー、チエどうしたの?」
「!!!」


 少年ボイスに思わず身を強張らせて急いで振り返ると、慎が笑いながらパタパタと手を振って千恵美のすぐ傍に立っていた。もっと気配を敏感に察知できるようにならなければ駄目かもしれない、と千恵美は未だバクバクと脈打っている心臓に手をそえて思った。


「あれ、ずぶ濡れじゃん。傘忘れたの?」
「うん、まぁ…。っていうか慎君も十分ずぶ濡れなんだけど」
「ああ、俺は散歩に出てたらいきなり降られちゃってさー」


 参った、参った、と笑いながら言い、慎はドアノブに手を伸ばした。慎も千恵美と同様全身ずぶ濡れである。それなのに家の中に入っていいものかと思い、止めようとしたがそのときには既に、慎は『鎖神』本部の中にいた。


「チエ、入らないの?」
「いや、だって濡れてるし…」


 慎はその言葉にキョトンと目を瞬かせてから、やがて納得したかのように千恵美を見て数度頷いた。


「成る程、成る程。だから佐奈ちんたちに『望月(フル・ムーン)』なんて揶揄されてんのか」


 千恵美にはさっぱり意味が分からない。疑問符を飛ばしながら未だ家の中に入らず玄関扉の前で右往左往していると、慎が千恵美の腕を掴んで豪邸内へ引っ張りいれた。引っ張りいれた、という表現は正しくないかもしれない。何せ、まるで風か何かに持ち上げられたかのようにやんわりと引き込まれたのだから。


「………ああ!」


 上手い具合に本部に入れられていて、千恵美は思わず声を出した。慎は軽く笑いながら玄関扉を閉める。既に床は水浸しになっていた。


「あ、オスっち!」


 オスっち?
 聞きなれないニックネームに、千恵美は視線を床から慎の視線の先へと移す。そこにいたのは、左右階段の途中で渋い顔をして立っているカオスだった。その顔からは、面倒な奴に会ってしまった、という内心の思いが読み取れる。


「丁度いいところにいた! ちょっとチエを風呂場まで運んでってくれないかな? 俺は佐奈ちんのとこ行って適当に乾かしてもらうから」
「ええ!?」


 慎の言葉に千恵美は声を張り上げる。高い天井の玄関ホールにそれはよく響いた。千恵美は咄嗟に口を両手で塞ぐ。


「…何で俺なんだ」
「今から人呼んでたらチエが風邪引くからだよ。じゃあ、後よろしく!」
「おい!」


 言いたいことだけ言って、慎はさっさと『鎖神』本部の玄関扉を潜ってしまった。残されたのは憮然とした表情のカオスと全身ずぶ濡れで床を汚すまいとその場から動けない千恵美。
 数秒、間が空いた。


「………兎に角、風呂場に行くぞ」
「え、でも床が……」
「多少濡れても構わないだろう。女神がその気を出せばすぐ乾くしな」
「そういう問題でもないんですけど…」
「風邪でも引きたいのか?」


 カオスの言葉に千恵美は数秒悩んだ末、結局恐る恐る床を歩いた。階段を上りカオスの下へ着いた頃には慎重に歩きすぎたせいか軽く息が上がってしまっている。その様子に、カオスは呆れの表情を隠さずに息を吐いた。


「お前はもう少し他人に迷惑をかけろ」
「…え?」


 ポフ、と頭に手をおかれて、千恵美は目を瞬かせてカオスを見上げる。カオスは自分の言った言葉を耳にいれて目を丸くしていた。
 確かにそう思ったことは確かだ。だが、口に出して言うつもりは毛頭無かった。
 思わず口の中だけで舌打ちする。
 佐奈の仕業だということは、すぐに分かった。


「………誰かを大事に思う奴は、皆その誰かに頼られたいものだ」


 仕方無し、といった感じでカオスは口を開く。今度は佐奈の所業ではなく、自身の意思だ。何となく気まずくて、カオスは千恵美の頭にのせていた手を退かして千恵美に背を向けた。
 千恵美はそんなカオスの背中を見つめていた。迷惑をかけたくなかったのは、いつか愛想を尽かされないだろうか、と思っていたからだ。赤ん坊の頃実の親に捨てられた経験を持つ千恵美にとってそれはとてつもない恐怖だった。


「………嫌われない、でしょうか。…呆れられたり、しないでしょうか」


 恐々と口を開いて、千恵美はカオスの広い背中に向かって言葉を紡ぐ。カオスは目だけで千恵美の姿を捉えて溜息に近い息を吐いた。


「悪気の無い迷惑をかけられて嫌うような奴なのか」
「違います!」


 咄嗟に口をついて出た言葉にはっとして、千恵美は小さく謝罪した。カオスは特に気にしたふうもなく微苦笑を浮かべ、千恵美を振り返らずに歩を進める。


「早く行くぞ。風邪でも引かれたら厄介だからな」
「あ……はい!」


 頷いて、足早に千恵美はカオスの後へと続く。
 床の水は、綺麗さっぱり無くなっていた。
執筆:2006/11/07