gatto
〜猫〜






 アスタルテ国弧暮にある『鎖神』本拠地の庭。そこで、黒猫は鈴をカラカラと鳴らしながら死に物狂いで走っていた。そりゃもう全力疾走だ。逃げなければ地獄に送られるとでも言うような必死さ。


「ちょっと〜!」


 その黒猫の後方で、凛とした甲高い声が響いた。黒猫は、赤と金のオッドアイの瞳を後方に走らせる。ブロンドの髪を風に戦がしながら、黒猫のあまり当たってほしくない予想通りの女性がやはり全力疾走で追いかけてきていた。


「っ何で逃げるのよ!」
「本能的に危険な香りがするから以外に理由なんかあるかァ!!」


 女性の声に、黒猫は既に声変わりしている少年の声で答えた。互いに少しも速度を落とすことがない。猫が喋ったことについても、女性は驚くそぶりも見せなかった。
 黒猫の名前は豊村翔平。小学生の頃からの腐れ縁であった悪友に失敗魔法をかけられて、それ以来姿が猫になった。つまりもとは人間である。そのことは『鎖神』全員に知れ渡っていたから、ブロンドの髪を持つ女性が驚かないのも頷ける。
 では、女性が翔平を追う理由だが。
 女性の名前は中桐晴那と言う。アスタルテ国に生を受け、現在では治安部伍長を務めている。無論、『鎖神』の一人だ。そして、彼女は無類の猫好きであり、自宅では二十匹の捨て猫たちと暮らしている。
 そう。晴那が翔平を追う理由、それは“翔平が猫だから”だ。


「いいじゃないのよ、美人のお姉さんに抱っこされるのよ? お得じゃないの!」
「中学三年の少年に刺激の強いことをしてはいけませんッ!!」


 晴那の言葉にビシッと返事を返し、翔平は前方に見えてきた玄関口の屋根に飛び移り、そのまま窓の上につけられた屋根やらを渡った。


「ちょ…っズルいわよ、翔平!」
「俺は逃げられりゃいーのっ」


 息を吐いて下を見下ろすと、晴那が『鎖神』本拠地の豪邸へと入っていくのが見えた。三階まで上ってきて捕まえるつもりなのだろう。
 翔平は口の中だけで「ヤベ」と呟いて、近くにあった窓から部屋の窓際に飛び立った。猫になってから、身軽になったということは良いと思うが、不便に感じたことの方が多いだろう。
 翔平は窓枠から部屋をキョロキョロと観察する。白ろ黒を基調としたその部屋からは、男性の部屋か或いは女性の部屋かは判別できない。だが―――翔平は視線を机の上に投じた。可愛らしく繊細な、香水瓶が置いてある。女性の部屋であることに間違いはないようだ。よく見てみれば、存在感を漂わせない雰囲気で鏡や(かんざし)など女性らしいものが置いてある。


『お?』


 部屋の扉をすり抜けて、入ってきたのは全長十五センチほどの、全体的に淡い緑色をしている妖精に似た生き物だった。そういえば『鎖神』の楓という少女がジンだと言っていた。説明としては“妖精に近い生き物”としか言わなかったが。
 それを思い出して、翔平はこの部屋が楓のものだったことを悟った。言われてみれば、猫になってからよく利くようになった鼻は、部屋の匂いと楓がいつもつけている香水の匂いが一致することを伝えている。


「あー……っと…。双樹…だっけ?」


 性別はよく分からないが。心中で呟いて、翔平はじーっと自分を見てくる双樹の瞳から思わず目を逸らした。じっと見つめられるのには慣れていないのだ。それに、今回は勝手に部屋に入ってしまったわけなのだから、どこか後ろめたい気分になる。


『豊村翔平…』


 ピシッ、と翔平を指差して、双樹は一言そう言った。翔平は何故名前だけ呼ばれたのか分からず、疑問符を浮かべて首を傾げる。


『楓、部屋! 変質者ッ!!』
「な―――ッ!?」


 叫びだした双樹の声に、翔平は思わず慌てた。というか、“変質者”と叫ばれようものなら殆どの人間が慌てるだろうと思われる。


「ちょ…! これにはワケが―――」


 ある、と言いかけた矢先、ガチャと死刑宣告を告げる悲痛な音をたてて―――翔平にはそう聞こえたのだそうだ―――無情にも部屋の扉が開いた。
 翔平は思わずその場に“おすわり”の姿勢のまま固まる。窓から風が吹いて、翔平の真っ黒な毛を戦がせた。


「…翔平じゃありませんの。てっきりこの国の者かと思ったんですが―――まさか翔平、そのような趣味でも―――」
「違います! 断じて違います!!」
「だと思いましたわ」


 楓の言葉に、翔平はキョトンと目を瞬かせる。が、楓が部屋の床に金属バッドを置いたときには思わず全身の毛が逆立った。


「見知らぬ人でしたらこれで制裁を加えようとしたのですけれど」


 無駄になりましたね、と息を吐き、楓は翔平をチラリと見た。思わず翔平が身を強張らせてしまうのも仕方の無いことだろう。


「―――それで、わたくしの部屋に来た理由は何ですの?」


 楓に言われて、翔平はハッと『鎖神』本拠地内にいる女性のことを思い出した。ブロンドの髪を持った、所謂美人。けれど今の翔平にとっては果てしなくお近づきになりたくない人物。


「いや、何か…ブロンドの髪した女に本能的名危険を感じて逃げてきた」


 ふ…と一瞬どこか遠い目をして、翔平が答える。楓はその“ブロンドの髪をした女”を脳内で思い浮かべ、同じく遠い目をする。
 晴那の猫好きは相当なものだ。猫の姿になってしまった翔平には辛いのだろう。もっと一般的な男子であれば、これほどの好機を逃がすようなことはしないだろうが。


『楓?』
「ええ…、そうですわね。それでは晴那がどこかに行くまでここで匿って差し上げましょう」


 楓の言葉に双樹と翔平が同時に目を瞬かせる。てっきり追い出されるかと思っていた翔平の驚きは一入だ。


『楓、優しい! 流石!』


 双樹の言葉に、楓はクスと軽く微笑う。
 翔平はやはり窓枠に座り込んだままだった。


「入りませんの?」


 椅子に座りつつ尋ねたのを聞き、翔平は曖昧な言葉を紡ぎだした。言葉、とも言えなかったかもしれない。


「外走り回ったから、足汚れてるし」


 渋面をつくって―――やはりこれも翔平が“した”と思っているだけで実際はあまり分からないのだが―――言った翔平の言葉に、今度は楓が目を瞬かせた。やがて、彼女は歳相応の柔らかい笑みを浮かべる。


「双樹、拭いて差し上げなさい」
『了解!』


 コホン、と咳払いして澄ました声を出した楓に、双樹が頷く。そうしてどこからともなく取り出したハンカチを持って翔平に近づいた。


「…俺、自分で出来るけど」
『楓、言った。だから、拭く』


 全く、主人想いなことである。
 心の中で呟き、一つ息を吐きながら翔平は思った。その間双樹が翔平の足を拭いていることに関しては無視していた。


『拭いた!』


 パッと元気よく言われ、翔平は双樹に短く礼を述べてからトン、と軽く部屋に足をつけた。楓はそれを見届けてから、ふと白銀色の瞳を細めて口を開く。


「来ますわ」
「は?」


 何を言っているのか分からなくて、翔平は素っ頓狂な声を出した。楓はそんな翔平を見て、そういえば、彼に戦闘経験があったとしても微々たるものだったことを思い出す。そんな平和な場所にいる翔平に気配を察知しろだの一言だけで隠れろという指示を聞き入れろだのを求めるのは難しい。


「…ブロンドの女性がやってきますわよ、と申し上げておりますの」
「げ!」
『翔平、物分り悪い』


 双樹の言葉に最後まで耳を貸すことなく、翔平はベッドの下にもぐりこんだ。隠れ場所が無数にあることは猫になってからの特権である。
 ガチャ、と静かに扉が開いた。


「楓!」


 甲高い、凛とした声が翔平に届いた。ベッドの下にいる分入ってきた人物の顔は分からないが、声などで大体は予想がつく。


「ここに真っ黒い猫来なかった?」
「猫…?」
「翔平よ、翔平。あの毛並みが綺麗で、一度は触ってみたいのよねぇ」


 綺麗?
 翔平は首を傾げてから自らの毛を見ようと試みた。前足の毛しか分からない。手入れなんてしただろうかと、翔平はやはり首を傾げる。


「さぁ…知りませんわ」
「そう? ありがとう」


 それだけ言って、晴那は扉を閉めた。扉の向こうでは、「どこに行ったのかしら、あの子」とか何とか、まるで子持ちの母親のような声色で呟いているのが聞こえている。やがてその声が遠ざかったや否や、翔平はベッドの下から飛び出した。


「ありがとな」
「礼には及びませんわ。あれしきの嘘の一つや二つ、軽いものですもの」


 軽々と言った楓に翔平は微苦笑を浮かべた。―――楓には翔平の表情の変化など読み取れないだろうが。
 それからは、暫く無言が続いた。翔平は部屋から出ることなく、ベッドの上にごろんと丸まる。出て行くことも可能だが、楓が何かを話す雰囲気を漂わせていたので出なかったのだ。


「―――翔平は…」


 楓の言いよどんだ言葉に翔平は、ん? と首を傾げる。翔平の位置からは楓の後姿しか見ることはできない。


「…猫になって良かったと思うことはありまして?」


 楓の言葉に翔平は怪訝な顔をした。しかし一応答えは決まっていたので、質問の意図が分からないながらも口を開く。


「無いけど」
「ただの一度も?」
「無い」


 翔平があっさり答えると、楓は小さく息を吐いた。そうして、「では」と付け加える。翔平はやはり怪訝そうに楓の背を見つめた。


「猫になる前、たったの一度でも“猫になりたい”と思ったことは?」


 翔平は言葉を詰まらせた。
 そりゃあ、猫になれたら学校に行かず一日中家でゴロゴロと出来るだろうなとは考えたことがある。猫じゃなくてもいい。犬、鳥、金魚、なんでもよかった。


「わたくしは思っていますわ」


 翔平の答えを待つことなく、楓が言葉を重ねる。翔平が目を瞬いていると、楓が苦笑気味に「これは不謹慎なことかもしれませんけれど」と言を紡いだ。


「猫になれば、もっと素直になれるんじゃないか、と」


 その背にどこか寂しいものを感じ、翔平はすっくと立ち上がった。けれど何を言うべきかが分からない。以前から友人に相談事を持ち込まれても、的確なアドバイスを渡すことが出来ない傾向は強かった。


「―――さて、わたくしは本を取りに来ただけですから。そろそろ行かせてもらいますわ。…双樹」
『…了解』


 本棚から一冊の本を取り出し、楓は今まで事の成り行きを見守っていた双樹を呼んだ。双樹は短く返事を返し、楓の後に続いた。


「事が治まるまでここにいても構いませんわ。それでは」


 薄く微笑み、楓は部屋から出て行った。双樹は暫くどちらに行こうか迷った末、翔平の元へと飛んでくる。


『楓、一人違う。双樹、ずっと一緒。心配、無い』


 ぶつ切りの言葉でそう言って、双樹は部屋の扉をすり抜けていった。翔平はその扉をじっと見つめ、息を吐く。
 上手く答えられない自分はやはり、未だ無力な存在なのだと、深く思い知らされた。
執筆:2006/11/14



DATE
name:豊村翔平
home:『見習い魔女の運命経路』
birthday:10/05
age:15
sex:男