ただ何をするでもなくそこにいて。
 私たちは―――そう、例えるならただの人にしか過ぎない。それでも……


「それでも、生きていけるなら、と―――」


 最近読んだ小説の一文。それを彼女がふと思い出したかのように呟けば、言葉は形になることなく夕空の中に消えていった。後に残るのは、時々吹く冷たい風に揺れる葉擦れの音だけ。目を閉じれば、それは命を打つ鼓動のようで。
 キィ…と扉が動く音がした。直後、バタンと閉まった扉の音がその空間に大きく響く。ハッと、姫風さくらは目を開けて―――馬鹿馬鹿しい、と息を吐いた。
 真冬の夕暮れ時、風の冷たさが身に染みるそんな時期に、あろうことか屋外で佇んでいるなんて、と。自分にしては珍しいことだ。怒涛のように舞い込んだ弁護士の仕事が一段落ついた故の心の緩みだろうか。思って、もう一つ息を吐く。白い靄が空気中で掻き消える様を眺め、さくらは『鎖神』本拠地の扉を背に歩き出した。
 コートのポケットに両手を突っ込み、肩を竦めて縮こまれば、少しは寒さも和らぐ。誰かに教えられたわけでもないそれを何の意識もせず行って、さくらは夕暮れの田舎町を歩いた。普段ならここで喫茶『鳥籠』を呼び出し早急に元の世界へと帰るのだが、今の彼女はそうそう帰る気分にはなれないらしい。これもまた、さくらが仕事三昧の日々に疲れている故の行動なのだろう。
 ふと視線を移せば、綺麗に整えられた田畑が見える。農家の家のすることはどこの世界に行っても同じものだ、と思ってから、さくらは微苦笑を浮かべた。


「我が侭、かしらね…」


 前髪をかきあげ、自嘲気味に言った言葉はどこか空虚感の漂うもので。それに一番驚いたのはさくら自身だった。思わず暫し動きを止め、長い溜息を吐く。


「我が侭? 何が、ですか?」


 不意に。まるで霧か霞のように、おぼろげな声が耳に届いたので、さくらは後ろを振り返りそれから辺りを見回した。
 姿は無い。けれど、声は確かに聞こえた―――この、人のいない道で。


「……誰」
「…おや。今回の可愛いお客様は姿を現してほしいようだ」


 その余裕の帯びた物言いに、さくらはギリと歯をかみ合わせた。少し怒鳴りそうになるのを押さえ、長く長く息を吐いた。


「………それで? アンタは今どこにいるのよ」


 さくらが腕を組み、そう問いただせばまるでそこの景色から溶け出したかのように少年が現れた。水面から出てきたかのようなその歪みは異世界案内人によって作り出されたものとは違っていて、目の前に存在する十七、八の男か女か分からない者に対するさくらの視線は自然と鋭いものになる。


「ここにおりますよ、lady」


 恭しく頭を下げたソレは、不思議と慇懃無礼には見えなかった。まるでそれを心の底からの行いであるかのように振舞っている。
 さくらは組んだ腕をそのままに、暗紺色のシルクハットとマント、そして右目にはめた銀製の眼帯をしたソレを見据えた。マントの下の真っ黒のTシャツと長ズボンが、休日などに見かける青年の服装に似ていたのが、ソレの不可思議な存在感と酷く不釣合いに見える。


「…誰?」


 さくらが問うと、ソレはクスと小さく含み笑いをした。怪訝そうにさくらが目を細めると、ソレはゆっくりと頭を上げる。


「“誰”、か。そう…存在を確認するためには名前が必要不可欠。これは当然のことですね、lady。けれど残念ながら―――」


 大袈裟に肩を竦め、高くも低くも無い中性的な声でソレは言った。眼帯に刻まれた白い薔薇が、夕日の光に赤く染まっているのをどこか遠くで眺め、さくらはソレの言葉を右から左へ聞き流した。


「―――ボクには名前がありません」


 漸く出た回答に、さくらは深く息を吐く。短気であることはさくらも自覚している。それ故、この手の人物との会話は正直遠慮したい。


「しかしながら…そうだね、一部の人間には“獏”と―――そう呼ばれているようです」
「最初っからそれを言いなさいよ、まどろっこしい」


 さくらがそう言おうとも、獏と名乗る人物は「おや、どうやらladyを怒らせてしまったかな?」などとほざくだけである。
 けれど“獏”と聞いて、創造主である月村佐奈の世界観やらが事細かに書かれたファイルを思い出した。それはつい昨日のことで、前までは無かった新しいページの名前欄にただ「獏―――Tapir」と。そう書かれただけのページ。他の者のページよりも半分少ないそれを思い出し、さくらは目の前の人物を見てなるほどと納得した。


「―――……アンタは確か『夢の世界の理想郷(ユートピア)』に存在する住人のはず。本来なら―――」


 言葉を切って、さくらは獏を睨みつける。それでも獏は愉快そうに漆黒の瞳を細めるだけだった。


「―――夢の中にしか出てこないわよね? …どうして実体があるのかしら?」


 さくらの問いに、獏はクツクツと喉の奥で笑った。その笑いにさくらが眉を顰めるとほぼ同時、どこからともなく現れた椅子に獏は腰掛ける。さくらは咄嗟に周りを見回した。佐奈のファイルには『夢の世界の住人たる彼は、生息地である夢の中では何でも出来る』と記されていたからだ。いつの間にやら夢の世界に引き込まれてやしないかと彼女は危惧したのだが、しかしそこには相変わらず喉かな田舎町が広がっているだけだった。


「理由なんて必要の無いものですよ、lady。何せボクたちはいつでも女神とお近づきになれる状態にあるのですからね」
「いくらなんでも佐奈がアンタを野放しにしておくわけがないじゃない」
「そう、強いて言うならば時間が定められていることが何よりの欠点だと言っておきましょうか」


 獏の言を聞き、さくらは軽く溜息を吐いた。『夢の中では何でも出来る』。なるほど、佐奈も根負けしたというわけか、と。


「お分かりいただけましたか? lady」
「大体は」


 米神を押さえつつさくらが答えると、獏は口の端だけで微笑った。ふとさくらが背後を振り返ればそこには瀟洒な椅子が置かれてある。


「ladyに立たせているなど英国紳士の名折れと言うもの…。お掛けになっては?」
「結構よ。私はまだ貴方を百パーセント信用したわけではないもの」


 髪を耳にかけつつ言えば、獏は大仰に肩を竦めて見せた。


「警戒心の強いことは良いことだけれど、しかしlady。それは自らが弱いからこその行いではないのですか?」
「わざわざ忠告して頂かなくとも自覚しているわよ、『遍在』さん」


 獏のことをそう揶揄し、さくらはクスと不遜な笑みを浮かべて見せた。そうすると獏は「なるほど、なるほど」と言いつつ喉の奥で静かに笑う。


「流石は女神の事実上の第一子。自分のことをよく知っているようだ」


 足を組み、腿の上に肘を置いて頬杖をついた獏は、「これはボクの管轄では無いな」と呟き、そうして―――「けれど」と付け足した。


「ならば君の言う“我が侭”とはどんなものか、大変興味深いことですね」


 覚えていたか、とさくらは内心舌打ちした。それを見透かしたかのように、獏は小さく含み笑いをしてみせた。


「先ほども話した通り、ボクにはあまり時間が無い。出来るなら早急に話してくれるならば嬉しいのですが」
「…女の秘密を聞きたがるなんて、悪趣味ね?」


 笑みを浮かべて言えば、獏はただ笑みを浮かべるだけで。さくらは思わず小さく息を吐いた。


「当ててみせなさいよ」


 どこか投げやり気味に言って、さくらはドサと自分の後ろにあった椅子に腰掛けた。足と腕を優雅に組み、椅子に深く腰掛ける。


「…ふむ。先ほどの文法と君の現在の体調を考慮するならば―――」


 顎に手を当て、獏もゆったりと深く腰掛け。呟いた獏を、さくらはどこか試すかのように見つめていた。


「―――仕事のある身でありつつ文句を言うのは我が侭……と、とれるが」
「“とれるが”?」


 獏の言葉を繰り返し、さくらは続きを促した。すると獏は友好的に見える笑みを浮かべて。


「もっと根本的なこと、なのでしょう?」
「……………」


 知っていて敢えて言わない、か。
 口の中で小さく呟き、さくらは小さく微笑った。


「そうなるわね」


 呟き、そうして。
 不意に意識が遠のいたのを感じてさくらは静かに目を閉じた。


「―――お。起きた?」


 その声に目を開け、さくらが体を起こすとそこは薄暗い場所だった。裸電球だけが唯一の光源である埃っぽいその場所は正しく喫茶『鳥籠』で。カウンターに突っ伏して眠りこんでしまったらしいとさくらは漸く気がついた。そうしてカウンターの奥にいる月村佐奈を視界に映してから口を開く。


「………獏」
「ん?」


 コーヒーを淹れている様子の佐奈をジトと半眼で見やって、さくらは片頬を引き攣らせた。


「私の夢に獏を乱入させたのアンタでしょう?」
「え……、……あはははは、バレた?」


 見事に視線を逸らし、額に冷や汗など浮かべつつ佐奈はさくらの問いにそう答えた。その答えは予想できたことだったのか、はたまた諦めの意なのか。さくらは溜息を吐いてカウンターの椅子から立ち上がった。


「もう帰るの? 折角コーヒー淹れたのに」
「残念ながら、こっちも新しい仕事やらで大変なのよ」


 言って、さくらは真っ直ぐに玄関扉まで歩き顔だけで振り返った。


「また暇になったら飲みに来るわ、master?」


 クスと微笑ってから、さくらは片手を振り『鳥籠』から元の世界へと帰って行った。薄暗く埃っぽい場所に佐奈一人。これはいつものことだからすっかり慣れてしまったから良いとして、と佐奈は冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。


「……masterって言われんの、もそう悪くないなぁ…」


 ボソと呟き、佐奈はコーヒーカップに砂糖と牛乳を入れた。佐奈専用の席に腰を下ろし、よくかき混ぜてからそれを一口喉に流し込み、目を閉じてパチンと鋭く指を鳴らす。再び佐奈が目を開ければ、まるで最初からそこにいたかのように中性的な顔立ちをした人物が佐奈の目の前に立っていた。暗紺色のシルクハットとマント、右目を覆い隠すかのようにつけられている銀製の眼帯。淡い金色の短髪に漆黒の瞳の持ち主―――それはさくらの夢の中に出てきた、獏と名乗る者だった。


「ハロン、獏」
「やぁ、ご無沙汰ですね創造主」


 両者ともにこやかに挨拶した後暫し無言の攻防戦。やがて佐奈は目つきを鋭くさせて獏を半眼で睨み付けた。


「で?」
「“で”…とは?」


 獏の言葉に、佐奈は立ち上がって獏と至近距離で顔を見合わせた。そうして徐に口を開き、コーヒーカップをソーサーの上に無造作に置く。


「何で勝手にさくらの夢に出たんかって聞いてんだよ、こっちは」


 ギリ、と噛み合わされた歯の隙間から出てきた佐奈の台詞に、獏は「ああ」と手を打ち合わせた。


「どうやら夢の中、一人で退屈していたようでしたから」


 飄々と悪びれもなく言った獏の言葉に、佐奈は椅子に座りなおして目を閉じた。彼女が思うのはさくらの夢の中の記憶である。


「………ぜんっぜん寂しそうじゃねぇじゃねぇか」
「おや、そうですか? まぁ解釈なんてものは人によって異なるものですから、仕方の無いことかもしれませんね?」


 にこやかに言いつつカウンター席に腰を下ろした獏に、佐奈は軽い溜息を吐く。まだまだ言いたいことはあったが、それを言葉として発する前に獏が先に口を開いた。


「―――結局、彼女はどうして“我が侭”だと言ったんでしょうね?」


 その問いが獏には不釣合いなものだったからか、佐奈はピタリと動きを止める。そうして片眉をちょいと上げて怪訝な顔で獏を見た。


「大方予想はできてんでしょ?」
「予想と事実は違うものですよ、創造主」


 佐奈は深く溜息を吐く。獏が佐奈自身に答えを言わせようとしていることを悟って、静かに口を開いた。


「生きていながら、食べるものもありながら、文句を言うことが」


 わざわざさくらの思考を汲み取らなくとも、佐奈は即座に言葉を紡ぐことが出来た。呟いたその先を発するために獏と視線を合わせる。


「色んな物に恵まれていながらも、未だ死者を追いたいと思ってしまう自分が―――我が侭だと、思ってるんだろうよ」


 最後はさらりと言ってから、コーヒーカップを持ち上げて一口啜る。僅かに微笑を浮かべて獏を見やると、獏は目を伏せやはり微笑を浮かべていた。


「なるほど、流石は―――」
「私の可愛い第一子」


 獏の言葉の先を佐奈が拾い上げて言い終える。
 自分を知り、分析し、逃げずにそれと向き合って。けれどその思考は透明で。だからこそ。
私の可愛い第一子
(けれどもう少し汚れなさい、なんて…。貴方より我が侭に呟くわ)