neve いつの間に、こんなに寒くなったんだろう。 そう思って空を見上げると、灰色の空から真っ白な雪がシンシンと降ってきていた。そりゃ寒いはずだ、と慎は思う。 これ以上寒くなる前に急いだほうがいい。そう思って、慎は『鎖神』本拠地の広い庭を足早に横切った。庭が広いことは裕福な気分を味わえる、ということで最初は気に入っていたのだが、実際豪邸によく足を運ぶようになってからは不便で仕方が無い。金持ちというのは何故庭を広くしようと思うのだろう、と慎は小首を傾げた。 豪邸の扉、その取っ手に手をかけて、慎は両手でそれを押した。高さは結構あるのだが、扉を開くときそれほど力は加えなくてもよい。恐らくは女の子への配慮だろう。数多の世界の創造主である月村佐奈は、自他共に認めるフェミニストなのだ。 豪邸の玄関を潜って中に入り、すぐに扉を閉める。玄関ホールを見上げると、相変わらず二階の高さに相応する天井から豪勢なシャンデリアがかかっていた。中央のシャンデリア以外にも、豪邸の地面に影が出来ないようにするかのように、至る所に光源がある。佐奈がいつもいる喫茶『鳥籠』とは大違いだ。けれど何故か、この日はこの玄関ホールの方が寒々しく思えて慎は一気に左右階段を上っていった。 ―――窓の外、暗い空から白い雪が舞い落ちる。 慎は息を吐いた。上階から、縦に細長い窓をシャンデリア越しに見やる。慎が屋外にいたときはまだ少ししか降っていなかったのに、今では灰色の空を埋め尽くそうとでもいうように降り続いていた。 階段の上で立ち止まっていると、背後に駆けてくる足音が聞こえて振り返る。どうやら三階から階段を駆け下りているようだ。途切れ途切れだが慎の耳に声が聞こえてきた。 「―――今、雪―――って」 「早く―――降り―――」 その声はだんだんと大きくなってきた。と同時に足音も比例して大きくなる。声の音域が慎にも分かるようになってきた。高くも低くも無い声と、アルトの声だ。 「雪合戦ー!!」 「かまくらー!!」 叫ぶと同時に階段から飛び降りるように降りてきたのは二人の少女だった。神谷有希と、そして深緋色の瞳が印象的な秋風真佳の二人である。―――と、真佳も慎を視界に入れたのか足を止める。有希の方はまだ突っ走っていきそうだったが、どうやら真佳が彼女の服の袖を掴んだらしく慎との衝突は免れたようだ。 「お! 慎じゃん!」 「久しぶりだねぇ。どしたの?」 有希と真佳の言葉に、慎はニッと笑ってコートのポケットに突っ込んでいた右手を二人に向かって軽く上げてみせた。 「久しぶり〜、なかっち、ゆっきん!」 真佳のことを“なかっち”と、有希のことを“ゆっきん”と呼ぶ相変わらずの慎の様子に真佳と有希はほぼ同時に笑い返す。 「俺はねー、ちょっと暇になっちゃって。だから遊びに来たんだよん。なかっちとゆっきんは?」 「それがさ、真佳のとこ遊びにきてふと窓見たら雪降ってるじゃん? もうあたしいても立ってもいられなくなってさ!」 「んで、雪が私らを呼んだ気がしたので駆け足でやってきちゃいました☆」 イエーと言いながら腕を伸ばし、慎に親指をぐっと立てた右手を向ける真佳に、有希も親指を立てる。慎も流れ的にぐっと親指を立てて真佳と有希へ向けた。 ここに突っ込み役が居合わせていたならば三人の意味不明な行動に即座に突っ込むところだろうが、生憎そこにはボケ人員しかいなかった。 「じゃあ俺も行っちゃおっかな!」 「よっし、来い来い! ここの住人全員“寒い”とか“無意味”っつって来ねぇもんだから大歓迎!」 「いーの? 寒いの嫌いだったら無理しなくていーんだよ?」 真佳の言葉に、慎はキョトンと目を瞬かせた。いつもの服装にコートを着込んだだけなのに、どうして気付かれたのだろう。 「…んー。でも俺、雪は好きだから!」 ニッと笑みを浮かべた慎に、真佳は特に追求することなく「それなら万事OK☆」と癖のある笑みを浮かべて見せた。 「よっしゃ! そんじゃ雪合戦だ!」 「んでその後にはかまくら作ってストーブいれておしるこだ!」 「じゃあ俺はその横でチョコレートケーキだ!」 だんだん雪と関係の無い話になっているどころか雪が積もっているかさえ分からないだろうに、とそう突っ込む者もやはりここにはいないのだった。 ―――シンシンシンシン、雪が降る。 ―――こういうときには、その石造りの空間はいつにも増して冷え冷えとしていた。 ガチャ、と観音開きの扉を開いて、真佳、有希、慎の順で三人は『鎖神』の本拠地から外へ飛び出した。目の前には未だ誰にも踏まれていない新雪が―――あるような都合のいい展開になるわけはなく、やはり雪はまだ降っているだけで積もってはいない。 「ぬあ!? 酷ッ! めっちゃ楽しみにしてたのに!!」 「畜生ー! 喧嘩売りやがったな!! 上等だ! 買ってやる!!」 地面を見て言う真佳と、天空に向かって中指を立てる有希。慎はその二人に背を向けていた。豪邸の壁に沿うように、僅かだが雪が積もっていたのだ。それをそっと集め、適度に固めたものを二つ作り、慎はそれらを同時に真佳と有希に向かって投げた。 一つは有希の後頭部に命中。しかし、真佳へ向けて投げた雪玉は気配を察知されたのか避けられてしまった。 「あ…、流石なかっち」 「実力、実力☆」 真佳にそう返されて、慎は口を尖らせた。二、三回程度は真佳と刃を交えたことがあるが、未だに慎は真佳に勝っていない。この機会に隙でもつこうと思ったのだが、見事失敗してしまった。 「慎ー!」 「―――あっはは! ゆっきん白髪だ、白髪!」 「うっわ、冷たそー!」 有希の言葉に、当たったことを思い出したらしい慎が笑いながら言い、真佳も有希の隣で慎と同じく笑った。それが気に食わないのか、有希は真佳を捕まえようと飛び掛る。 「待ってーい!」 「っと、ヤバ」 真佳はクツクツ笑いながら有希を軽くかわし、小さく言って慎の方へと走ってきた。それに伴って有希も慎へと向かってくる。 「…って、なかっち! 俺ンとこ来ないでよ!」 「元はと言えば慎君がやったことなんで自業自得で〜す。さー、鬼ごっこの始まり!」 「おっしゃ、待て待てー!!」 真佳の急な提案に、有希はその気になったようだった。体育「十」の有希が全力で追ってきたら、真佳と慎も全力で逃げなければならない。 「家ン中は!?」 「「ぐるぐる回るのもつまんないからアリ!」」 慎の問いに答えたのは真佳と有希だった。その答えを聞いて、ぐるりと『鎖神』本拠地を一周してから真佳は屋内に入って行った。慎はそれを見計らって屋外にいるまま死角に逃げ込む。有希は慎も中に入ったと思ったのか、はたまた真佳を追って行ったのか豪邸の中へと全力で駆けて行った。途端、ぎゃーぎゃーとした騒がしい声が慎の耳に入ってくる。慎はそれに長く息を吐いて手を豪邸の壁に触れさせた。 ―――寒さの増した石の床と壁と天井と、入り口に嵌められた鉄格子。 ―――それが更に寒々とした空気を醸し出している。 ビク、と思わず慎は肩を強張らせる。手の先から感じるのは、雪で更に冷たさの増した石だった。 瞬間的に思い出す。窓の無いその部屋―――牢獄、と呼ぶべきその部屋を。 ブルーグレイの色合いが寒さを際立たせ、裸足の足はそのまま石の冷たさを伝えてくる。冬になるたび、足も手も悴んでいたその頃。 全て―――全て、この産まれ持った能力のせいだ。人の心を断片的に感じてしまう、この能力。 そう何度思ったことだろう。言葉を発することが出来た頃には、既に牢獄に入れられていたのだろうと思う。母親、父親、祖母、祖父、近所の村人。全てから畏怖嫌厭の情を読み取ったときの辛さは今でも忘れることができない。 あのときは暗闇の中にいた。そこは地下牢で、窓は一つも無く光源も勿論無い。真っ暗な中、膝を抱えて牢獄の隅で縮こまっていた。身体が震えるのは仕方の無いことだ。 ―――何してるノ? その片言の言葉が投げかけられたときには、それが何かも分からなかった。言葉すら忘れていた。けれど何もすることが無かった為石に自分の名前や誕生日やらを落書きしていたおかげか、それらは忘れずに済んだ。 それから一年後、村は不慮の事故で全焼。その時慎が牢獄から出てきて、初めてその少女と見た雪は、慎の目には眩しすぎた。 今の雪も、十二分に眩しい。 慎は壁から手を離してもう片方の手でそっと擦った。 「慎君逃げろー!」 「へ?」 真佳の声が頭上から聞こえた。それに思わず素っ頓狂な声を出した慎の目の前に、軽やかに何かが着地した―――真佳だ。 「真佳! お前…ずるッ!!」 「使えるもんは有効に利用すべし! これはお祖母ちゃんの口癖!」 窓から身を乗り出した有希に、真佳は一つブイサインをして笑った。慎も有希のいるだろう場所を見上げる。 「慎! お前もずるいぞ! 隠れてどうする!」 「―――」 言葉に詰まる。ふと慎は真佳が見つめているのを感じとった。 『鎖神』中枢、『掛け渡し』。勘の鋭さと戦闘能力は天下一品、そして『鎖神』内では“母親の懐”と“子どもらしい無垢さ”を持っているということも加わって一目置かれている存在。 そうか。成る程。 慎はニッと思わず笑んだ。 「へっへーん。俺隠れないなんてひとっことも言ってないもんね!」 「そゆことー!」 二人揃ってブイサイン。 有希はそんな二人に“鬼ごっこの何たるか”を語っている。曰く、逃げてナンボ。追いかけてナンボ。しかしその言葉には真佳も慎も耳を貸さず、「いっせーのっせ」と掛け声を掛け合ってから有希に背を向けて走り出した。 「あっ! ずる! あたしまだ降りてねぇじゃん!」 「語る前に追いかけないゆっきんが悪いと俺は思う!」 「詰めが甘いね、有希☆」 真佳と慎の言葉を最後まで聞くや否や、有希は全速力で廊下を駆け階段を下り走った。そのときには真佳も慎もバラバラに行動している。 走っていると冷たさなんて無くなるってことを、今まで気付かなかったなんて。 心が楽しさで跳ねるのを感じながら、慎は『鎖神』の広々とした庭で走り回っていた。 その後、鬼ごっこでの騒音が騒がしかったと三人が説教を食らったのは、また別の話である。 |
執筆:2006/12/01 |