深夜。紫紺のヴェールで包まれ星々が煌めき月が煌々と光を降り注ぐ晴夜。森の中深く人目を避けて建てられたその豪邸は静寂に静まり返っていた。
―――――――過去形である。
パチリ、と、正面から見て左の三階角にある一室の風取窓から人工的な明かりが漏れ、控えめな音を立ててそれが開かれた。窓から覗いた人影は、その部屋の住人であるロキ。彼は、いつもは金色の髪を闇と同色に戻し―――何故ならその色こそが彼の本来の髪の色だからだ―――くるくると色の変わる稀有な瞳は、今は疲労の混じる翠色に固定されている。室内へと視線を戻してロキは深々と溜息を吐き出した。
「……男に夜這いされても嬉しくないのだがね」
「安心しろ、私にもそのように下劣な趣味は無い。」
どこか透徹とした、感情そのものを知らないかのように無情な声が返ってきて再びロキは溜息を吐く。
「それならば今すぐこの部屋から出て行ってくれないかね、ヘイムダル。」
「それは出来ない相談だ。」
端的に答え、ヘイムダルと呼ばれたその青年は十四・五歳ほどの容姿に一切表情を浮かべず、その手に持つ白刃で電灯の光を反した。
地上での名を光 遙とする彼はロキと同じく北欧の神の一柱で、ロキとは浅からぬ仲―――――つまり神話時代からの宿敵同士だったりする。
「我等が父、偉大なるオーディン様の命により、今日こそ貴様のその穢れた血を絶たせてもらう。」
「…あのねぇ……」
言ってオーディンへ、戦地へ赴く古の戦士がする祈りを捧げ、いざ、と切っ先を向けてきたヘイムダルに呆れ果て溜息しか出ずロキは顔の半分を右手で覆った。
「いい加減にしたまえ“眠らぬ神”。君と違って僕は眠りを欲し夜の女神の腕に抱かれ夢の少女と逢瀬を楽しみたいのだよ。神話界と違い世界を見張る大役も無く君が暇を持て余していることには確かに同情しよう。だが、だからと言って貴重な睡眠時間も熱量も酸素ももちろん命だって君に差し出してあげるほど僕は奇特で愁傷な精神を持ち合わせてはいないのでね。」
ロキの訴えに、しかしヘイムダルは
「死ね。“人々の恐れ”」
「ってだから君は人の話をちゃんと聴こうよ!」
あっさりと無視。その理不尽さに反論するロキだが、翻る刃を視界に映しながら動こうとはしない。
数メートルの距離を詰め、ヘイムダルはロキへと肉薄し―――――――
「させません!!」
キンッ
刃がロキへ届こうとしたとき、青年が二人の間に割り込み、腕に巻かれた鎖でそれを受け止めた。
「大事は御座いませんか、
大地を髣髴とさせる浅黒の肌を持つその青年は蛇を思わせる金の瞳で背後のロキを窺い訪ねる。それに、ロキはゆったりと瞳を青色に変え喜色に眇め、微笑んだ。
「この通り無事だよ。君のおかげだ。ありがとうヨルムンガンド――――僕の誉れ高き息子。」
その答えと呼びかけに、青年の体が歓喜で震える。
人界での名を海 夜彦とする青年はロキの二番目の息子で、いまは人の姿をしているが本来は世界をぐるりと一巻し更にはその自らの尾を咥えられるほどの巨体を持つ大蛇だったりする。
「穢れた邪神の血を引く醜い化け物…オーディン様のご意向を妨げるならば貴様も血の海に身を沈めることになるぞ」
「遠慮させて頂きます。深く暗く冷たい海の底は、経験するのは一度きりで沢山ですので。」
「遠慮するな」
「結構です」
片や無表情、片や笑顔で間に刃を挟み押し問答を繰り広げる二人を傍観していたロキは『天支』の本拠地であるこの屋敷に来てから毎夜繰り返されるその光景にいい加減飽き飽きとしていた。
最初は確かにスリリングで面白いと思った。が、それが毎晩続くとなれば話は変わってくる。毎回手を変え品を変え襲ってくるならまだ楽しみようがあるというのに、バカの一つ覚え宜しく同じような夜襲しか彼、ヘイムダルはかけてこない。自分を楽しませないようにあえてそうしているのだと安易に推測できてしまい、ロキはうんざりとヘイムダルへ視線を向けた。
「君ねぇ、おい、ヘイムダル、“策略の神”。君は天を支えるこの組織中にいる間は僕に手を出さないと我等が創造主殿に誓わされていなかったかい?」
そう、『天支』のメンバーに選ばれたとき、因縁を持つもの達は『天支のメンバーである間は殺し合い禁止』と、創造主である柳乃朋美に約束させられているのだ。だというのにこの毎夜の襲撃。
「問題ない。草木も眠る今時分は天を支える者達にとっても休息の時間。」
「……つまり今は公私の私だから攻撃してもかまわないと?」
「そうだ。」
無茶苦茶な屁理屈である。だというのに創造主が止めに入らないということはその理屈がまかり通るということなのかロキの実力を信用してくれているのかはたまた面白がっているのか。
「全部、かな。」
「何がだ」
「いやいや、こちらの話だよ。」
後で女神のいる酒場『水底』へ遊びに行ってあげよう。などと女神が心底嫌がりそうなことを鮮やかな笑みを浮かべつつ考えながら、同時進行で現状の打開策を模索する。
「君はそんなに僕が憎いのかい?」
「違う。滅ぼしあうのが我等の定めだからだ。」
「運命の三女神が読み取った定めに、従い生きることに違和感を覚えないのかい?」
「そうであるべき流れを定めというのだ。それに逆らう貴様こそが異端なのだろう」
「異端であることの何が悪いというのだい?有象無象に溢れかえる思考の中で違う考えを持っているというのはむしろ誇るべき長所だと僕は思うのだがね。」
「その考えこそが異端だという。不変を砕く貴様は、異物でしかない。」
「不変?」
その単語に、言葉を返していたロキの唇が呵責と嘲弄を写して逆さ三日月を模った。その細く白い腕を組み、窓枠と壁に背を預け、瞳は憤怒を表し真紅に染まる。
「不変。不変か。君たちはまだそんな絵空事に縋り付いているわけかい。まだ気づかないと言うのか、そんな幻想などありはしないということに。」
「不変は存在する。」
「いいや存在しないね。宇宙ですら変動を繰り返すというのに、星ですら終わりを迎えるというのに、何をもって神々に不変があると言えるのだい?」
「我々が神だからだ。」
「理由になっていないね。」
「神は永遠に座するものだ。」
「約束を反故にし裏切りを繰り返し驕り高ぶることしか出来なくなった神に不変など望む資格も無いね。」
「約束を踏みにじり裏切りを美徳とする悪神の台詞とは思えないな。」
「…だから言うのだよ。」
一瞬、翳った語尾と自虐的な微笑は彼の息子の背中に隠れ見られることは無く、侮蔑と憐憫と憎悪と嘲りにロキは吐き棄てた。
「どうせ僕らは同じ穴の狢だ。」
それを侮辱とのみ受け取り、ヘイムダルの大海を映すような瞳に怒色が登る。
「貴様とオーディン様を同列に扱うな。」
裏切り者
その唇が紡いだ言葉に、ロキの瞳は痛哭を映して藍に染まるが、それを恥じるように瞼の裏へ隠した。
「――――Are you an enemy?」
「…?」
意味を取りあぐね、疑問符を浮かべたヘイムダルにロキが鮮やかに儚げに笑んで言った。
「君は、敵かい?」
「父上……!」
それまで沈黙を選んでいた息子の叫びを黙殺し、ロキは疑念を浮かべる光の神へ歩み寄り首をかしげた。
「ヘイムダル。君は、僕の、敵ですか?」
「当然だろう。」
今更何を聞くのかと、言外に語るその返答にロキは「じゃあ」と微笑んだ。
「今は刃を向けるときじゃない。僕らの物語の中で、存分に僕を殺そうとすればいい。」
僕も君を殺すから。