例えば無明の闇の中
 例えば深い沼の底
 そんな場所で独り生きねばならなくなったとき
 心は生きていられるのだろうか……?





Solitude





 ケン ケン ケン
 木と木のぶつかる音が廊下に響く。
 ケン ケン ケン
 少し高い位置にある大きな窓の枠に腰掛け、痩身痩躯の少年――――――カーラは、初めて手にする玩具……剣玉を器用に皿へ入れては別の皿へと繰り返していた。
 面白いのか面白くないのか、枠に背を預け、左手をだらんと下げて、笑うこともせず眉間に皺を作るでもなくどこか眠そうに大と中の皿に玉を繰り返し乗せている。その瞳は手元を見ているようでどこか遠くを見ているようで……むしろ何も見ていないのかもしれないと思わせるほど虚ろだった。


「何をしているんだい?『裏切りの少年』」


 声変わりもまだなボーイソプラノの揶揄するような声が突然かけられて、しかしカーラは表情を揺るがさずそのまま二,三と剣玉を皿に乗せ、


「見れば解るじゃん」


 無愛想に呟いた。
 それに声の主である、外見的にはカーラよりも更に幼く見える少年、ロキは底の見えない謎めいた微笑を口元に湛えたまま『解らないから聞いているのだがね』と言った。


「それは君が、夜独君から助力の代価として貰った玩具だろう?他に価値あるものや珍しいものならば幾らでもあっただろうに何の価値も無いそれを君は選んだ。彼は『気に入ったんだろう』と言っていたが、それにしてはつまらなさそうなので気にかかってね。『剣玉をする』という外見的行動に重点が置かれていないというのなら、『剣玉をする』ことで君が何をしているのか?―――――――僕はそういう意味で『何をしている』のかと問いかけたのだよ。理解していただけたかな?」


 すらすらと、外見には似合わぬ口調で紡がれた言葉に初めてカーラの表情が動いた。
 その深紅の瞳に不快と嘲りを滲ませ、口の端を吊り上げ『ハッ』と端的に喉を震わせて笑う。


「よっく回る舌。切り刻みたくなるよ。」
「刻むと言えば、君の時計はもう時を刻まないらしいね。」


 世間話をするように言われた言葉にカーラの手が止まる。
 その瞳に怒りと侮蔑を滾らせ、変わらぬ笑みを浮かべるロキを睥睨する。
 だと言うのに、構わずロキは続けた。


「あぁ、そういえば『剣玉をする』という行動は、永遠という停滞を模した動作に見えなくも無いね。」
「黙れよ」


 その瞳が怒りを増し具現された風にその青緑の髪がざわめき、ロキの金髪を揺らす。それでもロキは変わらず微笑をその口元に湛え、言った。


「君は可哀想な子だね。」


 瞬間、風が髪を煽りその頬に傷を残す。
 流れ伝う血をそのままに、ロキは変わらず笑んでいる。


「黙れ」
「本当は君だって解っているのではないのかい?君はとても不運で哀れで可哀想な子なんだということを。だから否定したくてその言葉を拒絶しているのだろう?」
「黙れッ!!!」


 怒りによって具現された風が真空の刃となって廊下に傷跡を幾つも刻み、しかしそれはこの館を創造した主があらかじめかけていた命令に従い、幻のように揺らぎもとの無傷な廊下に戻る。
 荒く息をつき、窓枠と剣玉を握り締めてカーラは怒りに毛を逆立てるように猫のように細く縮まった瞳孔でロキを睨んだ。


「……知らない癖に……ッ」


 血を吐くように呟く。


「知らない癖にッ!!ボクが何を見てきたか、ボクが何をしてきたか、ボクが何を感じたか!!ボクが何を思ったのかッ!!!知らない癖に知った風な口利くなッッ!!!」
「あぁそうだね、僕は君の何も知らない。」


 感情に任せて怒鳴るカーラとは対照的に、穏やかにだからこそどこか禍々しく、ロキは微笑のままに続けた。


「知らないからこそ言えるのだよ。何も知らない僕から見ると(・・・・・・・・・・・・)君はとても可哀想な子だ(・・・・・・・・・・・)。」
「煩いッ!!」
「皆も思っているだろう、君は可哀想な子なのだと。だから皆君に構うのだよ。」


 その言葉に、カーラは悪意を笑みにし口角を吊り上げた。


「だから何、大人しく同情されろっての?見下せる相手見つけて喜んでるだけの癖して。奇麗事押し付ける気なだけだろどーせ。いーよねー馬鹿はそれで他人助けた気になれるんだからさぁ!!そうやって自分の存在意義確かめて自惚れんのは勝手だけどそれにボクを巻き込むのは止めてくれる?ウザ過ぎなんだよね」
「誰もそんなことは言っていないよ、カーラ。ただ君は自分が可哀想な子だということをもう少し知覚すべきなのだよ。」
「だから!!誰がそんなこと頼んだ訳?!そーやって勝手にレッテル貼んのはどうでもいいけどそれ押し付けないでってボク言ってるんだけど何あんた耳無い訳?!」


 どこか頑なに怒鳴るカーラに、ロキは違うよと静かに告げた。


「それは汚点でも見下すべき点でもない。君は可哀想なんだ。僕が哀れなようにね。」
「――――はぁ?なにそれ意味わかんないんだけど」
「そうだね、今は解らないだろう。けれどいつかは解るかもしれない。それが成長というものだよ。だから僕は今言うんだ。いつか振り返ったときその意味を君が考えられるように。そうだな例えば」


 一度そこで言葉を区切り、沈黙の中で微笑んで、静寂に響かせるようロキは続けた。


「君が過去の選択を悔やみ、どちらを選ぶべきであったかを今ならば理解できるように。」


 深紅の瞳が怒りに瞠られる。
 その瞳に、深い後悔が浮かぶ。
 そこに滲む感情は
 悲嘆。


「黙れッッ!!!」


 叫び。裏返った声は悲鳴にも聞こえる。
 剣玉が床で跳ね、その両手で自身の顔を覆う。


「カーラ、君は可哀想な子だ」
「黙れ…ッ」
「闇の中で一人置き去りにされて、壊れた時計を抱いているしかない。」
「黙れ…」
「人が太古の昔に地上で生きるため水で呼吸するのを止め空気で呼吸するようになったように、闇の中で生きていくには光を捨てて闇を吸わねばならなかった。」
「だまれ……」
「寂しかっただろう悲しかっただろう怖かっただろう苦しかっただろう。けれどその全ての感情を食らわなければ君は生きられなかった。」
「だまれよ……」
「可哀想に、カーラ、ようやく光への扉を見つけたとき、既に君は闇に適応してしまっていた。人が水中で生きることが出来ないように、闇になじんだ体は光をすぐには受け付けない。だから君はゆっくりとその扉に近づきようやく光に触れても大丈夫なほど浮上して来れたのに、」
「だま…れぇ……」
「君は光を失った。再びその手で扉を壊したんだ。」
「―――ッ」


 目の前にあった希望を自ら破壊した。
 壊れたそれは、もう元には戻らない。
 元に戻っても、
 もう触れない。
 同じものであっても
 もうそれは
 希望にはなりえない。
 壊れるものだと知ってしまったから。


「なんて可哀想なのだろうね君は。もう少しで救われたというのに、結果更に深い闇の中に落ちてしまった。」
「煩い……」
「可哀想に。君はもう希望の光を見つけても近づくことすら出来はしない。それが砕け散る瞬間の恐怖を覚えてしまったからね。」


 そっと、
 幼い両手が顔を覆うカーラの腕に触れる。


「可哀想に―――――――止まった時間の中で、君はどれほどの闇を食らって過ごしてきたのだい?」
「何をやっている。」


 唐突に割り言ってきた声に、ロキはカーラから離れ視線をやる。
 階段の手摺に左手を乗せ、階下から上がってきたらしい長身の黒髪黒瞳を持つ青年、夜独が、そのどこか陰のある瞳でロキを睨んでいた。


「別に何もしてはいないよ。ただ話をしていただけさ。」
「とてもそうは見えんな。」


 言いながら階段を上りきり、歩いてきて二人の間に入るとカーラからロキを引き離す。
 その右手が触れようとした時、カーラは恐れるように払いのけた。
 疑問を瞳に浮かべる夜独を睨みつけ、獣が威嚇し唸るように言葉を吐き出す。


「恩でも売ったつもり?」
「……は?」
「余計なことしてんじゃねぇよッ!!偽善者!!!」


 怒鳴り、窓から飛び降りた。
 目を瞠りカーラの飛び降りた窓枠に手を着いて二階の、けれど実質は四階分ほどの高さのあるそこから地上を見下ろし着地したカーラが駆けていくのを見て安堵の息を小さく吐いてから、夜独はロキに向き直った。


「あいつに何をした」
「随分気にかけているのだね彼のことを。」
「そうだな。あいつは昔の俺に少し似ているから……嫌でも目に付くんだろう」
「―――――――皆、感じていることは同じのようだねぇ」


 カーラは似ている。
 自分の中にある、或はあった、
 猜疑 疑念 嫌悪 拒絶 不信 否定 孤独 嘆き 強がり
 今はもう克服したそれらの感情を彼は強く強く抱きそれに囚われている。
 まるで茨の中で遊ぶ子供を見ているように、それはとても痛々しく手を伸ばさずにはいられない。
 それは同情でも哀れみでもない衝動。
 見るに耐え難いから手を伸ばすのだ。


「酷くね、イラつくんだよ彼を見ていると。」
「……イラつく?」


 『お前がか?』と言外に含む言葉に、ロキは苦笑して肩をすくめた。


「そう、我ながら大人気ないとは思うのだけれどね。」


 それから窓に近づき、その遠い空へ視線を向けて呟いた。


「だって彼はまだ戻れるのに、もどかしいじゃないか。」


 まだ彼は、
 掬い上げる腕さえあれば光の差す世界へ戻れる。
 まだ手遅れではない。
 なのにそれを否定し拒絶する。
 なんて愚かな子供なのだろう。


「……それは……同感だな。」


 呟き夜独も空の彼方へ視線を向ける。
 絶望しかないと思い込んでいるその姿は確かに痛々しい。
 過去の自分を投影してしまい、眩暈がするほどに。
 

「だから少し……ね。」
「…………虐めても逆効果だろう」
「解っているよ。でもしょうがないだろう?彼はもっと光に焦がれるべきなのだよ。それにはもっと闇を知らなければならない。」
「深みに嵌ったらどうする」
「そんなの決まっているだろう?」


 言って微笑を湛え、深い闇を滲ませて、ロキは真っ直ぐ夜独を見て答えた。

 
「彼が壊れるだけさ。」


 ……お前はカーラが救われることを望んでいるのか、それとも堕ちることを望んでいるのか?

 問いかけようとした言葉を、
 結局夜独は飲み込んだのだった。

執筆:2006/10/09