ゴミ一つ落ちていない廊下を歩き受付事務から預かった書類に目を通した。安っぽさは感じない真っ白い紙に黒のインクで囲われた表の中、様々な筆跡で書かれた名前が踊っている。
ここ治安部の本日の見学者のリスト、なのだそうだ。
担当地区の平和を維持するというデリケートな仕事場で危険性を孕む可能性のある一般人の見学を、(当然見学不可のスペースもあるものの)受付の用紙に署名するだけで許可するというのはどうなんだろうとは思うのだが、お上の方が“一般人に親近感を云々”言ってるのだから仕方が無い。上に命じられたら藍のような下っ端軍人は従っておくしかないんである。今手にしている書類の件も、直属の上司に取って来いと命じられたから預かってきたわけだし。
「竹西大尉!」
丁度良くその上司の広い背中を廊下の先で見つけることが出来たので声をあげた。紺の作務衣に身を包んだ長身痩躯が振り返る。荒く削られた黒曜石みたいな黒い双眸がこっちを向いた。
「おー、思てたより早かったな、宮戸。素直に渡してくれたか?」
「余裕ですよ、余裕。私みたいな伍長クラスの頼みなら聞いてくれないでしょうけど、大尉から頼まれたって言われたら出し渋れないでしょう。それほど重要な書類でもありませんし」
「それもそうか」苦笑交じりに頷いて竹西大尉が藍の持つ紙っぺらに手を伸ばす。拒む理由などあるわけもないので素直に竹西大尉の手に譲り渡した。
真摯な眼差しでもって紙上に躍る十九人の名に目を通す竹西大尉に不可解なものを感じつつ首を傾けた。それに呼応するかのようにして、頭の上でお団子にしても尚有り余るほどの量を持った水色の髪が自分の肩に落ちかかった。
先ほど藍が口頭で述べた通り、そしてあっさりと竹西大尉がその重要性を否定した通り、手渡したリストにそれほどの価値があるわけでは無いはずだ。ただの見学者の名前が連なられているだけなのだから間違いない。
それなのに竹西大尉は短い朝の休憩時間にわざわざそれを見たいという。何故か。分かるはずがない。
「……その書類、何か気になる点でもありました?」
リストを見やる目があまりに真剣なものなので自然と遠慮がちな声になった。迷惑がるでもなく割とあっさり紙っぺらから視線を外してくれたようで少しほっとする。もっとも竹西大尉は一部のいけ好かない上司と違って露骨な迷惑顔を浮かべることは滅多に無いが。
「あー、別に確証は無いねんけどなぁ。ただ二、三人ほど見知った奴がおんねん、此処に」
手の甲でリストを弾きながら言うので反射的に竹西大尉の持つ書類を覗き見てみた。竹西大尉の胸部辺りに掲げられたそれは竹西大尉よりも二十センチも低い藍では見難いものがあったが、此方にも見えるよう書類を傾けてくれたので何とか描かれた文字を識別することが出来る。
「見知った奴……ですか?」友達とかだろうか。
「言うとくけど知り合いっつーわけちゃうからな」
羅列された名前を真剣に吟味しながら思っていると先手を打たれた。相手の言動を見、その人の考えていることをズバリ的中させる能力にこの竹西大尉という人は長けているのだ。
「じゃあ……誰ですか?」
一瞬ちらりと竹西大尉の方に視線をやってから問う。書かれているのは男の名前ばかりで竹西大尉の元恋人とかいう線も薄い。他に思いつくのは同じマンションに住んでいる人とか軍学校で同期だったとかそういうのだが、竹西大尉の顔を見るにそんな単純なものでも無さそうだ。
「うん、こいつらな、全員前科のある奴や」
ざわりと全身の毛が逆立ったような気がした。自然視線が斜め上にある竹西大尉の顔に向く。
「憶えてる名前が複数あったから何か気になって俺個人的に調べてみたら思ぉた通りビンゴやったわ。つっても万引きとかカツアゲとかのチンケな犯罪ばっかりやったけどな。
けど気にならんか? 前科持ちが仲間引き連れてこの治安部に一同に会してんねんで」
確かに竹西大尉の言う通り。これがただの偶然では無いだろうってことくらい、そう頭が良いわけでもない藍にだってすぐに気付く。だって、一人や二人程度ならまだしも見学者の十九人全員が前科持ちというのはどうしたって可笑しいのだ。何か裏があるとしか思えない。
「でも、見学と称して治安部に乗り込んだって不発に終わりそうじゃないですか。仮にもこっちは訓練を受けた軍人ですよ?」
「そこやねんなぁ」
成る程、どうしてこれをお上に告げて注意を仰がないのかと思っていたが、目的については竹西大尉の方ももっともらしい仮説を立てることが出来ないでいるらしい。「もうちょっとやねんけど」と歯痒そうに自身の茶髪を掻き混ぜる竹西大尉に同情的な視線を向けた。治安部の連中は憶測で動いてくれるような便利な存在ではない。
「捕まった腹いせにしては無謀すぎる。それやったら爆弾投げつけた方がよっぽどええ策やろうし、たった十九人で乗り込んでくるっつーのも……」
男の人らしいごつごつした大きな手で自分の顔下半分を覆ってぶつぶつ言う竹西大尉から視線を外して彼の背後にシフトする。竹西大尉と藍の仕事場に通ずる扉が中途半端な形で開いていた。
こうやって二人で考えていても埒が明かない。まだ信じてくれそうな、中桐曹長辺りに意見を求めるのが得策じゃないだろうか。三人寄れば文殊の知恵とも言うし。
心に浮かんだそれを伝えようと口を開いた、
瞬間。
遠くの方で脳天を貫かんばかりに重く轟くマシンガンの継続音が聞こえた。