「げ」という呟きが口から滑り落ちてリーフグリーンの絨毯に吸い込まれた。しまった、思わず反応してしまったと思ったときには時既に遅く、ぐでっとした感じでソファに体を預けていた真佳とばっちり目が合ってしまった。
「やー、袴乃香ちゃんこんばん――ってどこ行くのさあからさまに避けすぎでしょやるんならもっとバレないよーにやろーよ!」
「バレないようにやったら良いのかよ」
ほっぺたを引き攣らせてついつい反応してしまった。
談話室を出ようとした体勢のまま固まって、反応しといて逃げるのも気分が悪かったので軽く舌を打ってから片手に持った皿を持ち直して改めて談話室に足を踏み入れた。
緑と茶を基調とした広々とした部屋に液晶テレビジョンとかいうのと冷暖房機器と、それから数十個ほどのソファとテーブルがあるだけの、そこは正しく談話室と呼ぶに相応しい部屋だった。玄関ホールを挟んで隣にある食堂と厨房を合わせて一つにしただけの面積が此処にはある。
この建物を創った人物(つまりは月村佐奈なのだが)が左右対称に拘った結果そうなったらしく、当初は談話室を設けるつもりは無かったらしい。だというのに今では誰かの誕生日パーティの会場やら遊び場やら休息場やらで大いに『鎖神』の役に立ってくれているのが何だか可笑しい。
斯く言う袴乃香も例外ではなく、時折デザートを頬張るために良くこの場所を使用した。広い部屋に一人きり。静寂。そんな雰囲気が嫌いではなかったから。
しかし今、袴乃香の真ん前には自分以外の少女がいる。
「あ、ミルフィーユだあ。良いなあ、袴乃香ちゃん作ったのー?」
「もらった」
アーティに。
とは言わなかったのだが、真佳には言わずとも伝わっているようだった。普段良く食べ物を貰っているからだろうか。それとも彼女お得意の勘だろうか。
「はー。仲良いねぇ」
「?」
食べ物を貰うことが何故“仲が良い”ことになるのだろう。
それはともかくとして何だかこの女いやに元気が無いなと内心袴乃香は片眉を跳ね上げる。少し気だるげなくらいの口調はいつもと同じだが、ぬいぐるみみたく大人しくくたっとソファに座り込んでいるのが気にかかった。普段はもっと、活力に溢れた人間だと思っていたが。
数秒考えて、その理由に思い至った。
そういえばここ最近秋風真佳は他より働き詰めな気がする。日に日に力を増す蚊をほぼ毎日相手にしているとなると疲れが出てくるのも当然だろう。
だからって労いの言葉をかけてやったりはしないけど。
この女、苦手だからあまり係わり合いになりたくないんだ。
「うー、マッサージ機が欲しいマッサージ機。体がダルイよう袴乃香ちゃん」
名指しで助けを求めるみたいに両腕を此方に広げてみせた真佳は一瞥しただけで綺麗にスルーして、ミルフィーユをぱくつくことだけに専念しようと心に決める。
「そんなに高価なもんじゃなくていーから何かどっかに無いかなあ。佐奈に頼んだら創ってくれるだろーか」
「…………」
「あー、でも置き場所がなー。置くと狭苦しく見えちゃうし談話室は全員座れるよーにってソファが目一杯置かれてるし。適当な場所が無いんだよねえ。ほら、マッサージチェアって意外と大きいから」
「…………」
「こうなったら客間に置いとくしかないかねぇ。誰か泊まってたら行きにくいってゆーのが難点だけど。でも相手がさくらみたいな気心知れた子とかだったら逆に行きやすいのかな」
「…………」
此方が返事してくれるものと欠片も疑わないやたらきらきらした眼差しで「ねー、袴乃香ちゃんはどー思う?」
鈍いんだかお人よしなんだか良く分からない対応に袴乃香は少し呆れてしまった。
普通避けられていると知っているのならもっと敬遠とした態度を取るものでは無いのか? 少なくともこんな風に変わらず無邪気な笑顔を向けてくるものでは無いと思う。袴乃香ならば係わり合いになろうともしない。
だから嫌いなんだ、とミルフィーユをもそもそと噛み砕きながら胸中で独りごちた。この笑顔に絆されたら二度と今までと同じ人生を歩めない気がして。
人族と魔族の争いが終戦という形で幕を閉じたからと言って、アスタルテはまだまだ治安が良いとは言えない国だった。そこを一人(今は少人数ながら道連れがいる形になるが)で旅して回るのは決して安全なことではなく、盗賊やら何やらに命を狙われることも少なくない。何せ袴乃香はまだ十代の半ば。不本意ながら連中にとっては格好のカモなんである。
そういう人間相手に加減して応じるのも面倒だからと、旅に出てから人を殺す確立が格段に増えた。
混血児だと知られれば迫害されるのは明白なので正体を知られた人間を殺すようにしていたら出会う人間の半分以上は殺すようになっていた。
そんな日常を当たり前として受け入れているから上手くやれているのだという実感がある。それなのに下手に希望を持たされて甘っちょろい生き方をするようになってしまったら、多分きっと旅を再開したとき袴乃香はまず間違いなく殺されるだろう。向こうも生きることに必死なのだ。そんな人間を相手にするのに生半可な覚悟で対応出来るわけがない。
だからあまり秋風真佳とは係わり合いになりたくない、のに。
いくら邪険にしてもなお柔らかく笑いかけてくるその様は、まるで子に接する母親のようで――。
嫌いだ、と心を頑なにして強く思った。
優しさなんていらない。一時的な思いやりなんて貰ったところで生き続ける糧にはなりやしないんだから。戦場を生き残る上ではそんなもの、邪魔にしかならないことを袴乃香はよく知っている。
「……部屋で食べる」
硬い声でどうにかそれだけ言い置いて、フォークを口に咥えた状態で袴乃香は談話室から文字通り逃げ出した。引き止める声は今度はもうかからなかった。