「っていう人質らの発言で、女神教信者が増えつつあるんよねー」
「それはえらいことやね」


 と、言うのとは対照的に焦燥など微塵も感じていませんという顔で淹れられた紅茶を口に運ぶ。上がる腕に伴って着物の袖が神木(かみき)(もえ)の白い腕を伝ってずり落ちた。紅茶は確かに美味しいはずなのに埃っぽい場所で飲むと急に本来の味が落ちるような気がするのは何故だろう。


「ほんで、あたしに何してほしい言うんどすか。まさか世間話のためだけに呼び出したわけやおまへんやろ?」


 この店の主がにこりと笑った。淡白な、という表現がぴったりとくる、佐奈にはおおよそ似つかわしくない笑みである。ポーカーフェイスや頭脳戦に憧れるのは結構だが、どうせ上手くは出来やしないのだから試みなければ良いのに、と萠はいつも思う。
 二十四坪ほどはあろうかと思われる木造立てのこの店は、そこそこの広さを有する面積に反して実際の使用可能スペースはほんの三分の一程度であった。というのもこの店の主人が雰囲気重視だとかのたまってテーブル席に不衛生な埃を降り積もらせたからだ。油が混じった粘着質の埃がべったりソファやらテーブルやらにこびりついている様はいつ見ても食欲をこそぎ取っていく。辛うじてカウンターテーブルだけは頻繁に磨いてくれているようだが、周りの空気が悪いのであまり意味は無いような気がしないでもない。
「流石萠ちゃん。察しいいなぁ」萠の語調につられたらしい関西のイントネーションの強い猫なで声でひとしきり此方のご機嫌を伺った後、


「世界の均衡がこれ以上崩れるんは困るから、女神教信者が今以上増えへんように情報操作お願いしたいねんけど」


 あっさり要求を口にした。
 女神教というのはアスタルテ国に数ある宗教の内の一つだ。水面下の活動でありながら結構数の信者を抱えるそこそこ一般的な宗教と言えよう。佐奈が言うには、任務先の現場で真佳が“女神の使い”とのたまったことからこの半日で信仰者が口コミで増え続けているのだそう。もしもアスタルテ国の大多数が女神教に心酔してしまったら権力図が大きく塗り替えられかねないと、そう佐奈は危惧しているようだった。
 こういう依頼が萠の下へ舞い込んでくるのははっきり言って珍しいことではない。どれほど影を薄めたところで存在を消すことなど到底出来るはずもない。人間の放つ微量な影響力が世界に余波となって残る、その駆除に異界に詳しい者が借り出されるのは必然的であると言える。
 なるべく音を立てぬようソーサーの上にティーカップをそうっと置いた。


「報酬の方は弾んでくれはるんやろね?」
「モチロン。お前らの母親という地位に誓って」





Pride of being a family





袴乃香(このか)


 かけられた声に目線だけで後ろを振り返った。蛍光灯の人工的な明かりに照らされて立つ少年の姿と聴覚が拾った自分の名を呼ぶ声がぴったりと一致する。「ただいま」柔らかな微笑をたたえ、眠りに落ちるとろとろした瞬間に似た穏やかな声で帰館を知らせる彼とは対照的に、袴乃香の方はあまりにあっさり彼の方から視線を外す。今はそれよりホワイトソースをこがさないことの方が重要だ。
「任務終わったの」鍋の中身をぐるぐるかき混ぜながらやはり素っ気無い口調で袴乃香。


「うん、終わらせてきたよ。何とか死者は出さずにね」
「ふぅん、お疲れさん」


 相手に気を遣ってではなく自然と労いの言葉が口をついて出た(というか相手を気遣うつもりは袴乃香にはない)。殺すことに慣れている袴乃香にとって、殺さずを貫く『鎖神』の任務はそれこそ厄介極まりなく無駄に気力を削ぎ落とす類のものなのだ。袴乃香同様、立ちはだかるニンゲンは殺害対象との方程式を作り上げている彼にとっても精神的疲労をもたらすものであっただろう。生かすことの困難さを既に嫌というほど叩きつけられた袴乃香も思わず同情せざるを得ない。
 袴乃香に(素っ気無いながらも)労いの言葉をかけてもらったのに気分を良くしたのか(それでどうして嬉しそうにするのか袴乃香にはてんで分からない)、屋敷の大きさに見合う広さを有する厨房内で僅か数メートルの距離を空けていた彼が、数歩袴乃香の方へ寄ってきた。


「袴乃香、何作ってるの?」


 脇から覗き込むようにして、アーティ。
 巨大とは言え飽くまで一つの鍋であるそれを二人で覗き込む形になっているからして、女みたいな精細な肌と整った顔立ちがすぐ傍にある。憲法色した髪からふわりとシャンプーの匂いがした。任務の後に風呂でも入ってきたのだろうか。


「シチュー」


 顔色を変えることも身を引くこともせぬまま、明瞭且つ素っ気無い声で。市販のルーを使わずホワイトソースから作り上げるのは袴乃香のこだわりである。
『鎖神』本拠地に住み込んで任務に当たる『柘榴石』と、現場指揮官の属する(と言っても今のところ一人しかいない)『紫水晶』の面々の内、まともに料理が出来る人間は七人。その内忙しかったりやる気がなかったり断固拒否を示した人間を除外して、結果袴乃香を含めた三人がローテーションで此処での食事をまかなっていた。面倒ごとは完全無視を決め込んでいる袴乃香がローテーションに加わることを許したのはそれが食事関係であったからである。それに、食べるのも好きだが料理するのも嫌いでは無いので。「袴乃香は良いお嫁さんになるだろうね」とはアーティの言である。その後自分の“お嫁さん”姿を想像して怖気が立ったのは言うまでもない。男に甲斐甲斐しく尽くす自分とか想像するだけで気持ち悪すぎる。


「へぇ、美味しそうだね。楽しみにしてるよ」
「シチューだったら私よりライアンの方が得意だろ」
「袴乃香が作るから楽しみなんだけど」
「何で?」


 きょとんとして顔を上げた。数センチ先にあるアーティにはしばみ色の双眸は呆れたような半眼。頬は微妙にひくついているように見えなくも無い。そんな態度に袴乃香の方は益々怪訝に眉を跳ね上げる。
 何と言うべきか迷ってでもいるかのような空白の時間があった後、結局アーティが口にしたことと言えば「……何でもない」疲労感がたっぷりこもった溜息交じりの言の葉だった。言いたいことがあるならはっきり言えば良いのに、とは思いつつも、追求するいわれも無いので「ふぅん」という軽い相槌を打ちつつ再び鍋の中身に視線を戻した。だんだんホワイトソースにとろみがついてきていた。あともう少し。


「……ねぇ、袴乃香」
「んー」
「“おかえり”は言ってくれないの?」


 落とした視線をもう一度上げた。真面目腐った表情を張り付けたアーティの真っ直ぐな眼差しと視線が絡み合う。


「……此処はお前の家じゃ無いだろ」


 我ながら投げやりっぽい口調で一言。
 再三視線をホワイトソースの方に移してぐりぐりかき混ぜながらそれにと内心で言を吐く。
 ――それに、混血児の私にはもう帰る家なんて無いし。
『鎖神』本拠地を構えることになったアスタルテ国には古くから語り継がれてきた伝承があった。人族と魔族の相の子は世界を揺るがすほどの力を持つ悪魔の子である、とかいう言い伝えである。気が遠くなるほどの遠い昔、その子どもの存在により大地が揺らぎ二つの大陸が一つとなり得てしまったその時から、人族と魔族が子どもを分娩することは禁忌として扱われてきた。
 袴乃香はその禁忌の末に産み落とされた人族と魔族の血を一身に受け継ぐ混血児だ。
 周囲に望まれなかった命であるところの袴乃香に、この世界での家は無い。安らげる場所なんて存在しない。正体が知られれば糾弾され迫害され排除(、、)されるのは間違いないこの世界で、真に穏やかに過ごせる居場所はどこにも無いことを、袴乃香十六年生きてきて身を持って知っているのだった。“ただいま”も“おかえり”も、自分には縁の無い言葉である。


「……僕も、そう思ってたんだけど、」


 ちらりとアーティの方に横目を投げた。困惑し戸惑っているように見えて不思議と瞳は穏やかだった。微笑んでさえいるように思える。


「…真佳さんがね、『一緒にご飯食べておはようとおやすみの挨拶を交わしたらもう家族』なんだってさ」


 ぴたりと、鍋をかき混ぜる手を止めた。印象的な深緋色の双眸を細めて包み込むような柔らかい声色で話す秋風真佳の台詞が、一拍置いて頭の中で聞こえた気がした。微苦笑混じりにアーティが言葉を継ぐ。


「家族だなんて今更欲しいとも思ってなかったけど、でも――こういう家族なら、僕は良いと思うんだ」


 その言葉がアーティの口から紡がれているという事実が袴乃香の胸に圧迫するように圧し掛かる。魔力を有しなかったがために親族から路傍の欠片のような扱いを受けていたアーティが口にするからこそ意味のある言葉のように思えた。所詮綺麗事だとは切り捨てられない。この世界に帰る家が無いのは袴乃香も彼も同じなのだから。


「だから、ただいま、袴乃香」


 改めて囁かれた言葉は、膝を抱えて蹲っていたところへ不意に差し伸べられた腕に似ていた。手を取るべきか迷う。生き延びるために戦うしかなかった、殺すしか道の無かった袴乃香の両腕は、きっと真っ赤な血で汚れている。その手で白い腕に触れて良いものかどうかが分からなかった。どこまでが大丈夫でどこからか駄目なのかの線引きを袴乃香は理解できていない。

 ――袴乃香ちゃん

 誰かが呼ぶ声が聞こえた気がした。

 ――これから宜しく、袴乃香ちゃん

 光の粒が弾けるみたいなとびっきりの笑顔で、悪魔の子と知って尚躊躇せず握手を交わしてくれたのは誰だっただろう。そう遠い過去じゃない。『鎖神』が設立されてすぐの頃の――。
 アーティのはしばみ色の双眸と、その時細められた深緋色の双眸が一瞬脳内で重なった。


「……ん」


 ふい、とごまかすみたいにコンロの火を消してしまって、囁くみたいな小さな声で呟いた。


「……おかえり」

執筆:2006/09/18
加筆修正:2009/07/08