本を読む時間は好きだった。
 非日常の世界を垣間見、本の世界に片足を突っ込む浮遊感に似た感覚。現実という限りある世界から一人隔絶されているかのような心地良いほどの孤立。現実からの一時の逃避行。物語に入り込んだまま気が付いたら何時間も経っていた、なんてことは良くあった。薄暗い中で我に返る瞬間の地に足がついていないのでは無いかと思えるほどのふわふわした感覚も嫌いではない。
 この日もいつもと同じように薄暗がりで活字を認識出来なくなってから我に返った。
 急速に夢から襟首を引っ張り戻される感覚に若干頭がくらくらした。窓の外はもうすっかり夜のブルーグレーに侵食されつつある。電気のつけられないまま放っておかれていた図書室は、ざらざらした闇に沈み凪のように静まり返っていた。生気の感じられない部屋にいると、まるで世界には自分一人しか存在しないんじゃないかという錯覚に襲われる。暗がりの中活字を追っていたからだろうか。目が少し痛い。
 読みかけのページを開いたままテーブルに伏せ、席を立った。蛍光灯のスイッチは扉付近だ。
 月明かりの下扉の隙間からぼうっと差し込む灯りに向かってマントを翻し歩を進める。廊下から漏れる灯りだろう。誰が操作しているわけでも無いだろうに廊下の灯りは周囲が闇に溶け込むと自然と発光するように出来ているらしかった。

 視界が利かない分、暗がりの中を慎重に歩むカオス・フィヨルドの眼前で、廊下から差し込む光が強くなった。
 縦に走った亀裂のような光の帯が軋音を立ててゆるりと開く。当然ながらフィクションストーリーのような非日常など目の前に現れるはずもない。ただ単に扉が開かれただけだとすぐに理解した。暗闇に慣れた目にはその光は熾烈すぎて生理的に目を細める。


「あれ、カオスさん」


 真四角に切り取られた光の世界からくっきり浮かび上がった影がさも意外そうな声を出した。聞いたことのある少女の声だ。自然入れていた肩の力をすっと抜いた。「本読んでたんですか? こんな暗いとこだと目ぇ悪くしますよー。私が言えた義理じゃないですけど。あ、電気つけますけどだいじょーぶですか、目」「……ああ、大丈夫だ。頼む」矢継ぎ早に投げかけられる台詞にはその二言だけで応じた。
 数度の明滅の後蛍光灯が光を灯す。未だ光に慣れていない目を片手で軽く庇って数度瞬き。まともに光の下で目を開くことが出来たときには、人影の正体はちゃっちゃと開けっ放されていたカーテンを全部閉めて戻ってきていた。狭くは無い部屋だ。恐らく数十秒はかかっていたのだろう。


「何読んでたんですか?」


 深緋色の双眸を好奇心に爛と輝かせて秋風真佳が机上のハードカバー本を覗き込む。特に止められなかったことに警戒心を緩めたのか伏せていた本をひっくり返して見開かれたページを見やる。見やったまま固まっていた。


「……エーゴだ」


 明らかに現実逃避したそうな声で真佳。一体“エーゴ”というものにどんな嫌な思い出があるのか知らないが、そっと机の上に元の形に置きやる秋風は見なかったことにしてしまいそうだった。


「よく読めますね、エーゴ」
「俺の住む世界ではそれが普通だ。“ニホンゴ”なんて言語も存在しない。むしろあんな難解な文字を読み書き出来るお前らを尊敬する」
「あ、マジですか? えー、なんか嬉しーなあ」
「………」
「え、でもじゃあ何で言葉通じてるんだろ。佐奈のおかげだろーか」


 ふやけた笑顔をすぐに仕舞って考え込むように眉間にシワを寄せる。くるくる変わる表情は見ていて飽きを感じさせないと思わなくもない。
 悪くないとは言えるだろう評価を下しておきながら、しかしカオスの方はそれ以上秋風と会話する気も無いとばかりに伏せられたハードカバー本をひっくり返した。別に無視したいわけでもないが、此処は図書室であり本を読む場所。そういう場に来たということは彼女も本を読みにきたのに違いないのだろう。なら話す必要は皆無と言えるのでは無いだろうか。


「カオスさん、それ面白いですか」
「ああ」
「日本語版無いかなー。ちょっと興味ある」
「月村に頼めば良いんじゃないか。翻訳くらいするだろう」
「佐奈もエーゴ苦手なんだけど大丈夫かな」


 ……一体こいつは何がしたいんだ。
 という感情が今漸く湧いてきた。本を探しに行く素振りも見せなければ沈黙に耐えられないから仕方なく喋っている様子も無い。何のために図書室に来たのだろうと思わず怪訝に眉を寄せるカオスである。


「お前は何がしたいんだ」


 考えても埒が明かないので実際聞いた。
 怒りというよりは呆れや疑問の色の濃い問いかけだったのだが、生まれつき目つきが悪いせいだろうか。注意して見ていないと分からないほど微かに、秋風がのけぞるように心持ち姿勢を正した。
 普段無邪気で社交的に振舞っていながら実は結構内向性が強いのかもしれないと、この時初めて思った。秋風のそれはカオスの表情に怯えたというよりも自分の行動で他人を不快にすることを恐れているように見えたのだ。その恐れすらもふやけた笑みで覆い隠してしまうのは、長年の癖のようなものかもしれない。


「……勘違いするな。迷惑がってるわけじゃない」


 素っ気無く言ったつもりの言葉が若干柔らかくなっていた。


「……あー、えー……。何でバレました?」


 困ったような緩い笑みを浮かべながら頬を掻きつつ逆に聞かれた。主語の無い問いかけに少しだけ考え込んでから思い当たる節に行き当たり唇から言葉を滑り出させる。「観察眼にはそこそこの自信があってな」「カオスさんモテるでしょ」何故あらぬ方向に話題の矛先が飛ぶんだ。
 渋面を作るカオスの方は気にした風もなく(若しかして気を許されただろうか)、椅子の上で床に僅か届かない両足をぶらつかせて「んー……」真佳が唸った。


「何がしたい、と言われても。強いて言うならカオスさんとお喋りしたいと思って話しかけてただけだしねぇ」


 いつの間にかまた話題があっちの方に飛んでいた。いや、最初そもそもその話をしていたのだから戻ってきた、と言うべきだろうか。
 それよりも今信じがたい言葉を耳にしたような気がするんだが。


「……俺と?」
「うん、カオスさんと」


 こくんと頷いた秋風の顔に嘘偽りの色は無かった。それどころか当たり前みたいな顔で小首を傾げるのである。
 そんな彼女に思わず絶句。片手で開き持っていた書物に指を挟み閉じてから溜息に近い長い息を吐いて、


「馬鹿か、お前は」


 ばっさり尊大に言い切った。
「ちょ」あまりの物言いに秋風が軽くショックを受けたような顔で頬を引き攣らせる。


「カオスさん酷くないですか話したいって言った次の瞬間に馬鹿とか!」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い」
「うわそれと似たような台詞私さっき強盗犯に言った覚えがあるよ、その分余計ぐわーってなるなっ」掻き毟らんばかりにウェーブのかかった長い髪をわしゃわしゃと手でかき混ぜて「理由陳述を要求しますっ!」びしっと此方に人差し指を突きつける秋風。そこまで熱くなる理由がどこにあるのかと思わず辟易する。元気だな、こいつは。


「他人に不快心を浴びせることに怯えてるんだろうが」


 秋風の表情から一瞬色が消えた。


「それなら他人と関わらないのがお前にとっても楽な選択のはずだ。良く知りもしない相手に喋り散らすのはお前にとっては勇気のいる行為なんだろう。その勇気をわざわざ振り絞って話しかける必要も無いはずの人間と話したがる。これを馬鹿と言わずに何と言うんだ」


 真っ直ぐ突き刺した視線の先で秋風が驚きにか目を丸くして、
 張り詰めた糸が弛んだみたいにくしゃりと微笑った。
 戸惑おうが悲しかろうが不快感を感じようがついつい笑顔を作ってしまう、そんな癖でもあるのだろうかこいつは。


「あー、うん、そーなんだよねぇ。一人で引きこもってた方が何に怯える必要も無くて楽。それは確かにそーなんだけど」


 息を吸って吐くだけの時間を要してから、


「でも、私はみんなと笑って過ごしたいから」


 呟くように言葉を紡ぎだした彼女の唇は仄かに弧を描いていた。瞳を伏せて微笑む様は儚いという表現がしっくり来る。それは『鎖神』ナンバーワンの戦闘能力を有すると言われている秋風真佳とも、甘えるようにのらりくらりと接してくる普段の秋風真佳とも違っていた。この一週間で垣間見たどの秋風とも違う彼女がそこにいた。
 クラレットの双眸で射るように見つめているのに気が付いたのだろう。ふにゃりとまた力の抜ける笑い方をして、秋風が口を開いた。


「笑って過ごすにはお互いのこと知らなきゃ駄目でしょ? そのためには一時の恐怖心なんてどーでも良いんだ。幸い今まで出会った子たちはいい人が多かったしねー」


 努めて明るく言を紡ぐ秋風にカオスはつい何とも言えない吐息を吐き出した。割りに合わない性格というか不器用というか、面倒くさい生き方をしているなと呆れを通り越して感心する。
 同時に少し見直しもしていた。
 譲れないもののために恐怖心を押しのけて行動する。そうそう出来るものじゃない。


「……お前は大分変わり者だな」
「……それは褒め言葉と受け取っても?」
「好きにしろ」
「むう」


 青臭いことを口にした自覚からだろうか。秋風の頬は仄かに赤い。そっぽを向いて困惑したように軽く渋面を作っているのも照れているからなのだろう。そう思うと少し可笑しい。掴みどころが無い上にふざけてばかりの秋風が他人のペースに振り回されるなど珍しいことだ。
 つい片頬を持ち上げて笑うカオスに「何笑ってんのよう」益々仏頂面を作る秋風。彼女の言う“みんなと笑って過ごす”というのは若しかしてこういうことなのだろうか。だとしたらこれはこれで悪くない。

 ポン、と何かが弾けるような音が虚空で聞こえた。思わずカオスは笑いを収めて、秋風の方はきょとんとした顔で音のした方に目を向ける。
 白っぽい蛍光灯の光に照らされる図書室には何の変化も見られなかった。整然と並ぶ本棚に数台のテーブル。カーテンもぴっちりと閉められたまま動かされた気配は無い。
 秋風が身を強張らせたのを感得した。そういえばこの反則的なまでの強さを持った少女は幽霊やら怖い話やらというものが大の苦手だったような。音はすれども姿は見えずのこの状況、正しく彼女の苦手な類を連想するには打ってつけの状況である。
 警戒心を立ち上らせたまま音のした方向ただ一点を見つめて硬直すること数秒。
 先に動いたのは音の主の方だった。


双樹(そうじゅ)、お邪魔虫?」


 本棚の影から半分だけ顔を覗かせて、ちらりと上目遣いで聞いてきたのは全長二十センチ程度の小さな人。
 腰まではある癖の無い真っ直ぐな金髪にライトグリーンのチューリップドレスを纏った、一見カオスらと何ら違いの無い少女である。その端的なまでの身長と、もう一点、普通のニンゲンとはどうしようもなく違うところを覗いては。
 背中辺りが広く開いたドレスのおかげでさらけ出された白い肌の、肩甲骨辺りから到底人間などには生やようがないものが生えていた。透明色の、流形線を描くように彼女の背から生えたそれは――
 羽だった。羽虫の羽。
 自らのことを双樹と名前で呼ぶ彼女は、紛う方なき妖精であったのだ。正確にはジンと呼ばれる精霊である。
 見慣れたその姿に張り詰めていた緊張の糸がふっと緩んだ。幽霊であるのではと危惧したわけではないが、正体不明のものに対して警戒はしていた。いつ野生の魔魅(まみ)が襲ってくるとも知れない生活を送っていたので物音には野生動物並みに敏感になってしまっているのだ。平和呆けした世界にいる間にその感覚が鈍ってしまわなければ良いが。
 それはそれとして。


「何だ、お邪魔虫って」


 半眼で問うと双樹の方はおずおずと本棚の影から細っこい腕を引っ張り出してきてカオスと、それから秋風の方を順番に指差し何ともあっけらかんと、


「らぶらぶ」
「で、あってたまるか」
「そのばっさり加減はホントのこととは言え酷くないですか」


 横から茶々を入れてくる秋風の存在は無視して「で、何だ」不親切な問いかけを双樹に向けた。普段は契約者と共にいることが常の彼女が、わざわざ契約者と離れてまで此処に来たということは何か用事でもあるのだろうと踏んだのである。
 此方の顔を交互に見やって漸く納得してくれたのか、双樹は満足げに頷き弾かれたみたいに本棚の向こうから姿を現した。これが双樹でなく普通の人間であったなら妙な噂を面白半分に流されかねないところだが、良くも悪くも真っ直ぐな彼女ならその心配も無いだろう。そう思うと心底安堵する。別に秋風を嫌っているわけではないが嘘八百の噂を流されて良い気分になれるカオスでは無いのである。


「夕食、出来た! 全員集合!」
「おー、りょーかーい。ありがとー」


 緩い笑みで応じて秋風が此方に視線をやった。


「じゃ、行こっか、カオスさん」


 言った秋風は間違いなくいつもの秋風で、先ほど見せた数々の表情は何事も無かったかのように笑顔の奥に埋もれてしまっていた。自己犠牲精神の強い奴だと内心呆れる。きっと彼女は周りが笑顔でいられるなら自分の寂しさも怒りも全部緩い笑みでもって隠しこんでしまうのだろう。寂しいときは寂しいと言って良いのだと、気付くのはいつのことだろうか。
 とりあえず今は、そ知らぬ顔で優しい嘘に騙されていてやることにする。





†何色にも染まる微笑を見た†

執筆:2006/09/19
加筆修正:2009/07/11