目が覚めたときにはとっくにお昼を過ぎていた。
ああまた食いっぱぐれた、と大儀に持ち上げた携帯の液晶画面を眺めながら独りごつ。専業主婦でもなんでもない『鎖神』の料理当番たちは当然始終暇であるはずがなく、一定の時間を過ぎたらもうご飯は作ってくれない。決められた時間を過ぎたらご飯は自分で調達する。それが共に過ごす上での何番目かのルールである。
(まぁ良いや……。適当にパンでも焼こ)
これでまた栄養バランスが崩れるなとも思うのだが死んだように眠り続けた後すぐに料理に繰り出すというのは億劫なこと極まりない。
見事にこんがらがって鳥の巣みたいになった金髪を手櫛でぐいぐい引っ張りながら何とか見れるくらいには整えて、ベッドからのそのそと這い出した。カーテン越しに差し込む陽光をちらりと見ただけでそれを開け放つこともなく寝ぼけ眼のままふらふらと扉の前まで歩いていく。ここ数日日の光なんて浴びてないから今その熾烈な光を浴びると途端に灰になるような気がする。
ドアノブに手をかける。ぐりんとノブを六時の方向に回した丁度その時、ぴったり三回扉を叩く音がした。面食らって思わず由理はその体勢のまま動きを止める。
「由理ぃ、起きてるぅ?」
夜更かしでもして寝坊したのだろうことが良く分かる、由理に負けず劣らず至極眠そうな声色で、ノックの主はそう言った。
「起きてる、起きてる」
タイミングの良いノック音にぴょこんと跳ねさせていた心臓を左手で押さえつつ、返事をしてからドアを引いた。扉の隙間から瞼の重そうな少女の顔が覗いている。天然もののウェーブがかかった黒髪(手櫛を通してもいないのだろう、あちこち寝癖で跳ねている)に、印象的な深緋色の目。Tシャツにジャージという明らかに気を抜いた部屋着姿で、由理の友人の一人である秋風真佳がそこにいた。
「どしたの? わたしに用事?」
真佳が寝坊するのはいつものことなのでその辺の疑問はすっ飛ばして用件だけを問いかけた。「うむ」、と真佳は大仰に頷く。微妙に覇気の感じられないゆらゆらした話し方は、寝起きの彼女には良くあること。
「蚊感染者の血ぃー。分析してもらってくれって、昨日コウさんに頼まれたのさ」
言うと共に片手に握っていたものをぞんざいな感じで手渡された。
反射的に両手で受け取ってから手の中のものに視線を落とす。実験実験の日々で見慣れてしまった細長い試験管の中、不気味にたゆたう赤い液体は真佳の言う通り紛れも無く、動物の血だ。
「ワクチンの手がかりに、だってさ。今のままじゃ感染したまま牢屋に入れられることになるだけだから」
まだぽやんとした目で軽く肩を竦めて真佳が言った。うん、と小さく頷く。掠れすぎてて真佳の耳まで届かなかったかもしれなかった。
蚊に感染され自制心のタガを外された者はそれが例えどれほどの人格者であろうと関わらず利己に自らの欲求を満たそうと行動するようになる。それは確かに本人の欲望の延長線上にあるものには違いないが、それでもやりたくてやったわけではないのは明らかだ。世間一般では加害者である彼らもまた被害者の一人なのである。そう考えると感染されたまま放っておくのは落ち着かない。
手の中で試験管を握り締めてこくりともう一度小さく、しかし力強く頷いた。
「うん、分かった。一分でも早く完成させられるように頑張る」
「そんな無理しないでいーよ。コウさんも急がなくて良いって言ってくれてたし。それでなくてもきつきつでしょーに」
「ううん」
首をふるふると左右に振る。
心配してくれている様子の真佳には悪いが、此処で甘える気は無かった。
「だって『鎖神』でのわたしの役割はこれでしょ」
右手に持った試験管を目の高さまで掲げ持ち軽く左右に振ってから気軽な調子でそう言った。
由理も属する『柘榴石』は主に戦闘に赴く者の集まりとしてより集められている。緊急時すぐに行動出来るよう比較的戦闘力の高い者で構成されたそれに名を連ねているにも関わらず、由理は今まで一度だって誰かと刃を交えたことがない。
以前天音と共に所属していたとある裏組織にいたときもそうだった。由理の役目はいつだって安全地帯での研究や発明で、その手を血に染めたことはカケラも無いのである。
戦いを好まない空でさえ頑張って『鎖神』の任務をこなしているというのに、由理には殺人どころか人に銃口を向けたことさえ無い。
未だ何者かと切り結んでいないのはこの屋敷内で自分だけ。
それが抗いようの無い罪悪感として由理の心を重くする。
真佳が困ったような呆れたような、複雑な表情で薄く微笑むのが見えた。何か言いたいのに言えないでいる歯痒そうな笑み。それでいてどこか悲しそうな。
真佳は分かっているのだろう。どんな言葉を投げかけても意味が無いということを。だって武器を構えない罪を軽くするような一時的な救済の言葉なんかを、由理は望んではいないのだから。
「……ん。あんま根詰めないよーにね。
由理いなくなったら私らすっごい困るんだから」
肩を竦め母親が子に子守唄でも聞かせるような柔らかな抑揚で言われたそれに一瞬息が詰まった。
ダメ押しとばかりににこりと無邪気に微笑む真佳の顔を見ていられずに反射的に視線を逸らす。いきなりそんな、恥ずかしいこと言うなよなあ。緩む頬を引き締めて何だか怒ったような顔になりつつ胸中で毒づいた。
由理は救済の言葉を望んでいない。罪の意識は背負ったままに自分で自分を酷使するのが、せめてもの償いだと思っている。その償いの行動が皆の役に立つならこれほど嬉しいことはない。
だから。
だから必要だと思ってもらえるのは由理にしてみれば何にも勝る褒美の言葉で――……。
ああもう。やっぱり真佳には敵わない。
「うん、大丈夫。……ありがとう」
囁くような小さな声での呟きに、真佳がとぼけたように「ん? なんのこと?」なんて言って小首を傾げる。その表情には薄い微笑が浮かんでいる。本当に意味を理解出来ていないだけなのか、それとも知らないフリをしているだけなのか、その動作だけでは判断しかねた。
立てた人差し指を唇のところに持ってきてそっと添える。
「ヒミツ」
少し背伸びした大人びた口調を取り繕って軽く片目を瞑ってみせた。
言葉の意味を知っているのかいないのか。どちらにしても構わない。真佳の言葉で心が軽くなったのは事実だから。
改めて、自分は良い仲間を持ったものだとそう思う。その仲間の安寧のためにも今以上に頑張らなければならない。否、頑張りたい。
握り締めていた試験管を<ジューシークチュール>のスウェットのポケットに突っ込んだ。
服を着替えて朝食を食べて、それから直ぐに研究室に行こう。やらなきゃならないことはまだたんまりあるんだから。