リィン、という澄んだ甲高い音に意識を引っ張り戻されて、活字の羅列から目を離した。代わりにどっしりしたアンティークデスクの表面を視線でなぞり、右端の方に置かれたこれまたアンティークものの電話機に視線を固定する。リィンリィンと尚も喚く電話機に特に何も思うことなくフレームレスの眼鏡を片手で外した。そのまま手を放すと眼鏡の“つる”に通したストラップがぴんと張って胸下辺りに危なげなくぶらさがる。
 持っていた洋書をテーブルに伏せて置いてから、若干腰を浮かせつつ受話器を取った。この電話を使うのは世界単位で見ても二人しかいないのを知っている。自分の“娘”とそれからもう一人。


「はい、なぁに?」
(はちす)さん? 私、私』
「若しかしてオレオレ詐欺の方かしら?」
『……意地悪め。君らの母親の月村佐奈ですよ』


 電話の向こうでぶうたれていることが容易に分かる声で答えられて蓮はクスクスとこっそり忍び笑いを零した。全くからかい甲斐のある子だ。


「それで、どうしたの? 電話が苦手な貴方のこと、世間話でかけてきたわけじゃ無いのでしょう?」
『ええ、勿論。新しく情報が入ったから報告にと思ってね。まず一つ。朋美の世界で寄生獣(パラサイト)が発生した』
「“パラサイト”?」


 聞きなれない言葉に眉尻を上げる。此方の心情を察したように『そう、寄生獣と書いてパラサイト』と佐奈が簡単に補足した。


『簡単に言うと(アノフェレス)の進化系かな。人間一人に寄生するようなもんじゃなく、世界そのものに寄生する感じのやつなんだと。それにも“核”、つまり本体があってそれ潰せば殺せるらしいが、自然物で構成された物体――例えば人型とか犬型とかね――の中を好き勝手に動き回るような奴だから、ちょっと手間かかると思う。五感も無いから気絶させんのも難しいんじゃないかな』
「それは佐奈の世界にもいるもの?」
『こっちの世界ではまだ観測されてない。でもこのまま(アノフェレス)をのさばらしといたら確実に寄生獣(パラサイト)も湧き出てくるだろうな』


 重々しい口振りで呟かれた言葉の端々にはどこか焦燥のようなものが漂っていて、受話器からは聞こえてこないが恐らく内心で彼女が舌を打っただろうということを確信的に理解した。ヒトの形をした感染者ならまだしも、寄生獣(パラサイト)なんて化け物が世界に現れてしまったとしたら世界崩落の道を急速に辿ることになる。


『まぁとりあえずそのこと皆に伝えといて。で、あともう一個。早々に手ぇ打たなきゃなんないことが一つ――』
「蓮さんっ」


 電話の向こうから聞こえるノイズ交じりの声を遮って比較的近いところから荒々しく扉の開かれる音と、切羽詰ったような少女の声が聞こえた。視線だけで其方を辿る。此処まで走ってきたのだろう、息が上がっている。それはともかく、酸素不足で白くなった顔がどこか青ざめているような気がするのは――多分気のせいじゃないだろう。


「あらあら、どうしたの? 只ならぬ何かがあったみたいね、由理」


 通話中であることに一時躊躇したように唇を引き結んだ由理に構わずにこやかに応じる。何か問題があったのなら電話など放り出してでも聞きだすべきだ。


「あっ……、(アノフェレス)の、さっきまで(アノフェレス)感染者の血を分析してて、でもそこにっ」
「落ち着きなさい、由理。ゆっくりで良いわ。落ち着いて、頭の中で考えを固めてから発言しなさい。大丈夫、貴方は頭の回転が速い子だもの」


 なるべくゆったりと見えるよう微笑して断言してやると、由理の方はこくこくと何度も頷きを繰り返してから瞳を閉じて震える呼気で深呼吸をし始めた。胸の前で左手に覆われるようにして硬く握られている右手が僅か震えている。


「……(アノフェレス)感染者の、血、から……」


 小刻みに震える唇から吐き出されたそれもやはり微かに震えてはいたが、蒼白になった顔色は先ほどよりはマシになっていた。


(アノフェレス)の、……卵が。見つかっちゃってっ」


 神妙に紡がれたそれにすぅっと瞳が細くなるのが自分で分かった。


「それは幾つ? 孵化してしまったの?」
「っうん、多分血が空気に触れたら孵化するようになってるんだと思う。数は十個から二十個くらいで、それが全部孵化しちゃってっ……今はライアンの魔魅が何とか押し留めてるとこなんだけど、」
『あー、やっぱそうか……』


 はー、と、疲れたような吐息が受話器の向こうから聞こえてきたのはその時だった。
 改めて受話器を持ち直してどうやら由理との会話が聞こえていたらしい佐奈にどういう意味かと問いかける。


『や、今回発覚した任務な、最初は確かに一人の(アノフェレス)感染者が巻き起こしてた事件だったはずなんだけど、異世界案内人を介して観測してるに、どうやらそいつが自傷行為に走るたんびに感染者が増えてってるみたいなのよ。今現在、実は凄い勢いで広まりつつあったりする』


 聞いている限り今にも現実逃避したそうな声で言われて、「なっ、」思わず僅か目を見開いて絶句してしまった。色々と思うところはあるもののこのまま卵が孵化し感染者に増え続けられようものなら間違いようもなくその世界は崩落する。


「すぐ人員をかき集めるわ。何人必要で、現場はどこの世界かしら」
『数は任せる。「緑柱石」の方からも一人寄越そうと思ってるから、それ視野に入れて考えてて。で、肝心の現場は、
 ……真佳たちの世界』


 また面倒な場所に出てきてくれたものだ。眉間に寄ったシワを中指の腹で揉み解しながら考える。
 真佳らの世界には昨日の現場のような特筆した事柄を持っている世界ではない。云わば佐奈や柳乃朋美の暮らす“現実世界”のパラレルワールドといったところで、魔法や陰陽術や化け物といったものとは最も縁遠き場所に位置する世界である。そんな場所で非現実的と言われる能力を『鎖神』の人間が使ってしまえば世界崩落の手助けになってしまうことは明らかだ。目立つ行動は最低限に抑えてもらわなければならない。


「……分かった。何とかさせるわ。由理、ライアンは耐えられそう?」
「多分。わたし、今すぐ(アノフェレス)を閉じ込めるケースの作成に取り掛かるわ」
「ありがとう」


 先ほどよりかは頼もしく頷く由理に幾分口調を和らげて応じてから、再び厳しい声音で受話器の向こうの佐奈に向けて口を開く。既に由理は此方に背を向け走り出し、蓮の方も知れず椅子から立ち上がっていた。受話器と電話機とを繋ぐコードが今ばかりは鬱陶しい。


「佐奈、(アノフェレス)をそれ以上広めないよう結界を張ったりは出来ない?」
『出来ると思う。すぐやってみる』
「お願いね。任務に出す子たちは全員司令部に集めるから、現場に運ぶのは頼んだわ」
『了解』


 佐奈の応答を聞いてから何を返すでもなく受話器を置いて通話を切った。
 今回の任務での最重要項目は感染者にこれ以上の出血を許さないことと出来るだけ早急に今回の任務を片付けることだ。今はあまり考えたくないことだが昨日の任務でも何人か流血を促してしまった感染者がいた。恐らく『鎖神』本拠地の建つこの地、アスタルテにも大量の(アノフェレス)が流れ出してしまったことだろう。そちらで事件が起こる時もそう遠くは無い。
 今回の任務、どんな手段を使おうとその二の舞になるわけにはいかない。
 と、いうことはつまりあまり相手を傷つけないで勝てる面子を揃えなければならないということ。どっしり構えるアンティークデスクを避けて司令室の扉へと大股で歩みつつ頭の半分で考える。答えを弾き出すのにそう長くはかからなかった。


真佳(シャパシュ)(クロノス)(ラクシュミ)! お出でなさい、緊急発進(スクランブル)よ!」


 扉を潜ったときには廊下の先にある吹き抜けのエントランスホールへ向けて声を張り上げていた。それぞれがそれぞれ動きを止めるのを気配の隅で目敏く感じ取って廊下の真ん中に屹立する。
『柘榴石』に属する者はそれだけで抗いようの無い枷に縛られることになる。いついかなる場面であってもどのような理由があったとしても、発令が出たならば任務遂行を果たさなければならないという命、緊急発進(スクランブル)。『柘榴石』とはつまり、それを甘んじて受け入れると誓った者のみで構成された不屈の精神を有する者の集団だ。
 階上でばたばたと人の蠢く音がする。蓮の声は間違いなく彼らの耳に届いたらしいと確信してそこで漸く張り詰めていた頬を若干ながら緩めてみせた。





†世界を救い世界に巣食う戦士たち、†





 さぁ、世界を救いに行きましょう。

執筆:2006/09/20
加筆修正:2009/08/17