そこは学校というところらしかった。
正確には大学とかいうもんらしい。定規で正確に測ったように作られた没個性の見本みたいな四角い箱に、一定の年齢を迎えた子どもを迎え入れて教育を受けさせるとかいう場所、というのが説明を受けて理解した全てだった。空の世界にもそんな場所はあるにはあったがそれは比較的大きな都市だけだったし、それもこんな立派で大きなところでは無かったように思う。残念なことに自分は学校という場所に通っていた記憶が無いので、ちゃんとは分からないのだけれど。
でも少なくとも床やら混凝土とやらの壁やらに派手な血飛沫がぶちまけられている場所では無いというのは分かる。つまり今、正しくその状況にあるこれは実に異常なことなのだろう。
「うっわ……」
真佳がげっそりと呻いたのも当然で、そこは戦場の跡地という名の地獄絵図だと言われても不思議では無いくらい凄惨な有様であるのだった。
目につくのは擦れぶちまけられ垂れ落ちた赤、赤、赤、赤の世界。まるで白を覆いつくさんばかりに飛び散ったそれから鉄くさいにおいがまだ色濃く充満していて頭の芯がくらくらした。きもちわるい。
此処でどれだけの者が痛手を負い命を落としたのだろうと考えると気分が滅入った。人が傷ついたり亡くなったりする場所は苦手だ。食道を逆流してきた酸い胃液を何とか飲み下して口元を手のひらで強く押さえる。
逃げ出したい。今すぐこの場所からも任務からも離れてたった一人誰も傷つけることのない場所に飛んでしまいたい。
じり、と左の踵が床を擦るように後退した。
知れず動く自分の足に自分で自分にがっかりした。やっぱりまだおれは何も成長してやいないんだ。女であれ子どもであれ、他の奴らは皆等しく踏ん張ってそこに立っているのに、自分はまだ同じ場所でぐずぐずしてる。
「空。嫌でしたら帰っても構わないんですのよ。戦う覚悟の無い方が戦場にいられると迷惑ですわ」
いつも以上につんと澄ました口調で言われて内心で微妙にたじろいだ。心情を見透かされていることに加えて面と向かってはっきり迷惑だなどと言われれば流石に堪える。図星だし。
口元を押さえた右手の指の先が、何かの布地に引っかかった。
何だろうと反射的に思った瞬間その正体に思い至った。左目には対蚊用として『鎖神』唯一の発明家である由理に借り受けた千五百だか千二百倍だとかの“こんたくとれんず”がはめられているのである。で、空の目に容赦無く異物を埋め込んだ(“こんたくとれんず”とやらは間違いようもなく凶器だ)後「視力の違いに煽られて気分悪くなるだろうからこれしていきなさいね」と無理矢理押し付けられたのが、指先に触れる闇色の眼帯なのだった。
「……や、」
唇から漏れた声は掠れていた。
「いい。だいじょうぶ。やる」
未だ吐き気が続いているため拙い言語になりながらも、どうにか短い単語を繋いでこの場にい続けることに決めたことを幼馴染に向けて宣言した。口元を押さえている手をひっくり返して頬に垂れる脂汗を手の甲で拭いながら、右目だけで細長い閉鎖空間みたいな廊下を睨みすえる。
由理にこれを任されたのはおれなのだと言い聞かせる。それは多分他の奴らにこの“こんたくとれんず”は戦闘の邪魔になるからという情けない理由なのだろうとは思うのだが。でも理由はどうあれ信頼されて任されたのは他の誰でもなく自分なんだ。
逃げちゃいけない。
逃げるわけにはいかない。
少なくとも頼まれた以上その使命を全うする義務が自分にはある。
「……なら構いませんわ。くれぐれも足手まといにはならないでくださいましね」
そう言って楓はぷいとそっぽを向いてしまった。相変わらずこいつは素直じゃないよなあと思う。本当は心配してんだってことはよく知ってる。何年一緒にいると思ってんだ。
「それで、どうですの? 辺りに蚊はいらっしゃるのかしら」
「いや……この辺にはいない」
苦笑の形に緩む頬を引き締め、眼帯を引き上げてざっと辺りを見渡してからはっきりと答えた。ざらつきまではっきり映る壁の表面に少し頭がくらくらして、すぐに眼帯を付け直す。
「蚊にとっては私たちは絶好の餌だろうにねぇ。若しかしたら気付かれてるのかな。私らが佐奈に直結する、名前を貰った人種だってこと」
「あのちっちぇえ脳みそにそんだけの知能があるって? ご大層な虫けらだな」
真佳の言にどこか小ばかにしたように“はん”と鼻を鳴らした男は『緑柱石』からの助っ人だ。確か名はフォー・セブンという。横文字というものは覚えづらいので曖昧だが一応合っているのではないだろうか。
上下ともに黒で揃えられた洋装はあまり丁寧に畳まれていなかったのかシワが目立つ。第二釦まで開かれた胸元から金の首飾りが覗いているのが見えた。そこから視線を数十度ばかり跳ね上げる。大雑把ながら一応外見には気を遣っているのか、灰色のかったような水色の短髪はそこそこに手が入れられていた。
と、男の眉宇に不快げなシワが寄る。元々目付きの悪い黒目が一層剣呑な色を放って此方を見下ろす。煙草を咥えたまま不明瞭な声で男が言った。
「ンだよ」
「……あー、べつに」
どうやら観察めいたことをされたのが気に入らなかったらしい。曖昧に誤魔化すと男があからさまに舌を打った。
旅をしている最中にもこういう柄の悪い連中に絡まれたり因縁付けられたりすることは(何せ治安の悪いところなので)しょっちゅうあるが、何度睨まれても慣れる気配は無い。その一睨みを軽く往なせるとこれ以上無く格好良いのだがなぁ。
「アーティ〜。校舎のどこに何人感染者いるかってのは分かる?」
『一応。佐奈さんが結界張るのと同時にあちこちに監視カメラ召喚してったから。此処には今「鎖神」の人間と感染者しかいないしね』
耳たぶに貼られた通信機から漏れる声はいつもの由理のものではなく別の男の声だ。今現在由理は蚊を幽閉するための容器を作成中だとか何とかで急遽アーティに席を替わってもらったのだそうだ。
最初のごちゃごちゃした設定は由理がしてしまったので後は画面に目を凝らすだけなのだと言うが、あの液晶画面を長時間眺めるというのは結構苦役なのではないかと空は思う。
『一階に三十七、二階に十四、三階に五十八、四階に四十二。総じて百五十一ってとこかな。蚊自体は見えないから何匹いるか分からないけど』
「…………」
「…………」
「…………」
「……おい、それ全部仕留めンのかよ」
煙草の煙を吐き散らしつつフォー・セブンが辟易したように呟いた。今まで刺々しいほどの声を発していた奴の声には今は不思議と刺が無い。多分呆れてるんだろう。空らの方もそれは同じくだ。
百五十一。一滴の血から孵化する蚊は十から二十と由理は言っていた。その繁殖率を考えると学校内にいる人間が全員感染されるのは仕方の無いことなのかもしれないが、いざ自分が戦うとなると……流石に気力を削がれる。
「……まー、虱潰しにやってくしかないよね」
「……それしかありませんわね。気は進みませんが」
「……双樹、頑張る」
軽く視線逸らしつつ言う真佳に楓が品のある溜息を漏らし、その隣で彼女の精霊である双樹があまり覇気の無い奮起を示した。
まぁ、うだうだ言ってもやらなきゃならないんだから仕方ない。
溜息吐き出し真っ直ぐ続く廊下の奥へと一歩踏み出す。床に散った血を靴底が踏みしめた。ぬるりとした感触に不快さから眉を顰めた。
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†踏ん張ってでも立たねばならぬ† |
何でこんなことしてンだ、俺は。
口先に咥えた煙草の先から紫煙を燻らせつつどこか他人事のように胸中でそうぼやいた。紫煙を追うように窓から見上げた空は申し分無いほど高く澄んだ秋晴れで、外出日和でひょっとしたらデート日和なんてモンになってたかもしれないほどの快晴である。ひょっとしてうちの創造主は上司と結託してただ俺に嫌味を言いたい(見せ付けたい?)だけで、たったそれだけのために自分をこんな真昼間から異世界なんていう冗談にもならない場所に引っ張り込んでいるのかもしれない。戻ったら覚えてろあいつら絶対ぇぶっ殺す。
「フォー・セブンさん、何ぼーっと空なんか眺めてらっしゃいますの。遊びに来たんじゃありませんのよ」
割と目付きの悪い眼差しで物騒なことを本気で考えるフォー・セブンに全く臆した風もなく、今回の任務の同業者の一人(何て言ったっけか、名前。天寺楓とか言ったか?)に何だか癪に障る窘め方をされた。確か自分より年下だったと思うのだが。上司といいこいつといい『鎖神』の人間にゃ年上を敬うっつー理念は宇宙の彼方に吹っ飛んでいるのかもしれない(別に敬われたいわけでは無いが。無償に敬われても鬱陶しいだけだし)。
「理解しねーで此処にいる馬鹿いるわきゃねーだろ」
結構どころか相当むかっ腹が立ったので渋面で舌打ちしてから自分の先を行く団子頭に向けて悪態を吐いた。
女が顔を半分だけ振り向けたことで、気の強そうな白銀色した片目と一瞬視線が交錯し、
聞き分けの無い子どもを持て余したような感じで嘆息された。
自分の意思など関係無く頬が盛大に引き攣った。
「てンめぇ!」
「まーまーまーまー、落ち着いて。熱くなんのは止めよーよ、ほら私たちあれじゃん、仲間だし」
「テメェらを“仲間”だなんて思ったことなんざ一度もねーよ」
「うわ、酷っ。皆で乗り越えたあの日々は嘘だったと!?」
「これが俺の初任務だろーが適当なこと言ってンじゃねぇ!!」
遠慮容赦ない力加減で後頭部を殴ってやると赤目の女の口から「ぴぎゃっ」なんていう小動物を彷彿とさせる奇声が飛び出てきた。
白銀目の女はいけ好かないわ赤目の女は妙なふざけ方しやがるわ紫黒色した髪の野郎は戦を前に緊張してるわ。こんな面子で化け物退治に出かけろだのと現場指揮官殿も良くのたまったものだ。
しかしそんな面子でもどうやらそれぞれ腕は確かであるようなのがまた気に食わなかったりする。それは今廊下に寝っ転がっている感染者共の姿を見れば一目瞭然であろう。
そこだけ時間の流れから切り取られたように同じ体勢のまま微動だにしない者、木々の蔓や幹で縛られたまま気絶させられた者、そうして的確に急所をついて抗う間もなく気絶させられた者――四方山空とか天寺楓とか秋風真佳とかいう奴らが全部やったものである。自分も殺傷能力の無い(針に塗りこめた毒やら何やらは全部消された。あのアマ……)暗器で幾人ほど沈めたものの、手際の良さは他三人の方が自分より抜きん出ているだろうという自覚はあった。殺さずを貫き通すのはフォー・セブンにはまだ難しい……いや、言い訳になるからこれは忘れよう。何にせよ力の差があるのは歴然とした事実だ。隙は命取りであると一日もすれば嫌でも教え込まれるような街に育ったフォー・セブンにとってそれは何より矜持を傷つけられる現実なのだが。
特に黒髪赤目のあの女。ハーフパンツにパーカーなんていうどう見たってそこらにごろごろいるただのガキに見えるこいつが何より厄介な人間だった。いや、人間というのも馬鹿馬鹿しい。いっそ化け物と言われた方がまだ納得できる。
四方山と天寺は自分より高い能力があるだけで実際殺り合ったら勝利をもぎ取ることなど容易だろうが、奴は違う。パワーとか反射神経、戦闘能力に必要とされるあらゆるステータス、その全てはもはや問題ではない。もっと根本的なところで自分は奴に負けている。先ほどの後頭部への打撃も“敢えて領域内に入ることを許された”といった感じで、いざ本気で攻撃を仕掛けたとしても軽くあしらわれる感が強い。こういう手合いとは出来うる限り戦闘になることを避けるのが一番賢明なやり方だとこれまでの人生経験上知っていた。絶対敵わない相手に猪突猛進に突っ込んでいくほど、フォー・セブンは無謀では無いのである。
「それで空、蚊はどうなりました?」
「今高速で止めてるとこだよ! いいなあんたら話す余裕あってッ!」
イライラと吐き捨てる四方山に内心で知るかよと独りごちて視線を逃した。
今床に転がっている三十人あまりを全員自傷させることなく取り押さえるなんてことは当然無理な話で、そいつらの処理は唯一蚊を捉えることの出来る四方山空とやらが全部請け負っているのだった。
時間制御なんていう反則的な能力でもって羽虫の動きを一時止め、同空間の時間軸を急速に進めることで空間内にいるもの――この場合は蚊だが――を衰弱死させる。
フォー・セブンにはそもそも蚊の姿が見えないので何をしているのかは上手く把握出来ていないが、手っ取り早く言うとそういうことらしかった。
「ねーフォー・セブンさん。このメンバー見てどう思う?」
「あ?」
少し前に考えていたことを警戒線を張った赤目の女に尋ねられて思わず怪訝な声が漏れた。もしや“自分が負けてる根本的なところ”というのは読心術とかそういうのではないかと一瞬割と本気に考える。
「私と楓ちゃんと空くんとフォー・セブンさん。それに双樹ちゃん。この五人でさ、百五十一の蚊感染者を全員残らず片付けられると思う?」
ちょっと試すような感じで言われて、それが気に食わなくて渋面を作る。しかし相手の方はあまり気にしてない感じで、にこにこと食えない笑みを浮かべて右隣に佇立しているだけなのだった。こういう性格の奴は正直なところ苦手なのだが、それでも少なくとも任務に関係ある話題ではあるので後ろ髪を手のひらで掻き混ぜながら少しだけ考えてやることにする(何だかんだ言ったって任務が終わらなきゃいつまで経っても帰れないのは事実なので)。
沈黙は長くは続かず、僅か三秒後。
「無理だな」
「だよねぇ」
断言すると意外にも肯定の意見が斜め下から聞こえてきた。ちゃんと分かってやがったか。どうやらそこまで頭が悪いわけでも無いらしい。
「能力的には申し分ないけど、長期戦となると分が悪すぎる。楓ちゃんも空くんも」ちらりと此方に横目を投げて「フォー・セブンさんも、得意分野は短期戦でしょ?」
実際口にして肯定するのは癪だったので沈黙を保つことで答える。急所をついて早々に人を殺すことに慣れているフォー・セブンに長期の、それも殺さずを貫く戦闘方法は枷でしかない。
「そう言うテメェは長期戦とやらに慣れてンだろうな」
「まーねー。いつも必要以上の力は使わないから、毎回自然と長期戦になるし。慣れた」
「…………」
つまり今この任務時でさえもこいつは全力を出し切っていないということか。フォー・セブンなら絶対にやらない戦法だ。自分より弱い奴を負かすのに時間をかける意味がそもそも分からん。
「ま、皆で体力温存して何とかやってくしかないかなー」
ぐい、と伸びをして歩き出すので怪訝に思ったがすぐに納得した。左目の眼帯を付け直して嘆息する四方山を見やれば羽虫の処理は何とか終了したのだろうことが容易に見て取れる。
自分もつられるように秋風の背中をいつもの歩調で追いかけながら、
(……何してンだ、俺は)
今一度自分の言動に疑問を持ってみたりする。とっとと終わらせるためとは言え結構積極的に働いたりガキの話し相手になってやったり、何だか自分らしくない。いや、割合最近はそんな事態に陥ってしまいがちで辟易としているので“らしくない”という言い方はもう可笑しいかもしれないが。
もう任務も何もかも放棄してしまおうかと考えた。そもそも『鎖神』に入れたのも勝手にうちの上司が決めたことだし自分は全くこの組織に思い入れなんか無いわけで、自分の世界が崩落しようが全人類滅んでも別に構わないむしろ望んでいるとも言える心境だからホントどうでも良いことなんだから自分が『鎖神』に籍を置く必要性は無い皆無なはずで、
そこまで考えてから思考をぶった切った。
こうやって無理矢理に自分を納得させようとしてる自分もらしくない。
隠すでもなく舌を打ってワークパンツのポケットに両手を突っ込み何だかむしゃくしゃするままにそれでも秋風の背を追って歩を進めた。
もうどうでもいい。どうにでもなれだ。
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■ □ ■ |
感染者数百五十一。
真佳らには何の躊躇もなく言ってのけた数字だが当然アーティだってそれが異常なものだということは理解している。真佳がいるからまだ良いものの、そうでなければ今頃他の人員を送り込むことをアーティが直々に要請しているところだ。いっそのこと真佳と蓮と真佳の祖母、三人で行ったら今より数十倍簡単に抑え込むことが出来るのではないか。
首にかけたチェーンに通した装飾品形態通信機の片割れである指輪を指先で弄りながらそんなどうしようも無いことを考えながら、傍から見たら真面目とは言いがたい表情でディスプレイ上に視線を流す。今何人くらい沈めただろう。幾つもの監視カメラの映像を満遍なく見やって胸中で呟いた。さっき数を確認したときに見た顔が三十か四十人あまりもうずっとカメラに映らないが、それらは全て真佳らの仕業だろうか。だとしたらそれなりに仕事は速いことになるが。
「ほう、聞いていた通り多いな。学園の人間の多くが感染されたのではないか? これは上手くやり過ごせたとしても穴埋めに相当骨が折れそうだな」
唐突に背後から聞こえた少女の声に視線を振り向けて眉根を寄せる。腰までかかった白に近いプラチノブロンドの髪に赤い目、病的なまでに白い肌。真佳とは違いきちんと(きちんと?)先天性白皮症の症状が出た外見を持つどう見ても十代前半としか見れない少女が、年齢不相応な堂々とした出で立ちでそこにいた。
アンティークの家具で埋め尽くされた、現在研究室に出ているため留守にしている蓮の司令室に少女の姿は一見不釣合いに見えるようで、しかしその実この場にいるのが誰よりも相応しく感じてしまう。その奇妙な存在感は彼女の少女らしからぬ精悍な表情がそうさせているのだろうか。
少しだけ少女の正体に考えを巡らせてからすぐに合点がいった。一週間前佐奈に紹介された内の一人である、紛うことなく『鎖神』の一員だ。所属はフォー・セブンと同じく『緑柱石』、名は確か白羽唯と言っていた。
「何、唯さん。飼い犬が心配にでもなった?」
唯の台詞はすっぱり無視して意地悪く聞いてみる。確かフォー・セブンは唯の護衛であったはず。わざわざ心配するような殊勝な性格があるとも思えないが、そうでなければ仕事の多忙から『緑柱石』に属することになった彼女が今此処にいる全うな理由が分からない。
見るからに素直じゃなさそうな少女なのでてっきり否定されるかとも思ったのだが、しかし予想に反して唯はにやりと片方の口端を吊り上げて「そう取って貰っても構わんよ」どちらともつかない返事をした。
「忠犬と言うよりは駄犬だが、まぁあれでも一応は私の部下なのでね。部下の一人ひとりを気にかけてやるのが良い上司というものだ」
……なるほど。流石若くして元の世界で魔道警邏所(治安部のようなところだという)の警視総監を務めるだけのことはあるというか、往なすように軽く肩を竦めた彼女はこんな軽口には慣れているとばかりに言動のそこここに余裕の色が垣間見える。
「じゃあその“良い上司”さんは、これからフォー・セブンさんが危険に陥ったらどういう行動を取るのかな」
子ども染みたことをしたという実感はあったので頬杖をつきつつ会話の矛先を別のところに捻じ曲げた。ついでに視線の方もノートパソコンの液晶画面にシフトする。由理の私物であるそれに表示された監視カメラの映像の一つが、感染者の鳩尾に蹴りを入れる真佳と感染者の頭を無造作に持ち上げて壁に叩きつけたフォー・セブンの姿を鮮明に映しとっていた(あれは確実に痛いだろう。同情はしないけど)。
アーティと恐らく同じところを見ているんであろう唯が、あっさりした口調で口をきいた。意地を張ってるんでも無理をしてるんでもない、当たり前という感じで。
「何もしないよ。それで死ぬならその程度の護衛だったということだ。私の命を任せるんだぞ、腕を立つ者の方が良いに決まってるし、そうでなければ意味がない」
それは果たして“良い上司”と言えるのだろうか。ついさっきの唯の台詞を鑑みてみてつい微妙な顔になったりする。
「はっは、矛盾してると思うかね? しかし良く考えてもみたまえ。自分と他人を天秤にかけたら天秤はどちらに傾くか、と聞かれたら、ゲルツ、君だって迷わず己を選ぶだろう?」
聞かれて何気なしにだが液晶画面の暗く沈んだ箇所に映りこんだ背後の少女から視線をずらした。それは勿論そうなのだが手放しに是と答えるのは何だか癪に障る気がした。そこで漸く気付く。白羽唯という人間は秋風真佳同様自分にとってペースの狂う相手なのだということに。
「さて、そろそろ私は失礼するよ。うちの駄犬が危機的状況に陥ったら是非とも連絡してくれると嬉しい。私は暫く此処の談話室にいる予定だから」
「助けにも行かないのに連絡が欲しいの?」
怪訝に思って振り返りざまに問いかける。
唯は既に此方に背を向けていた。腰の辺りでばっさりと切りそろえられた髪が少女が歩くのに合わせて軽く左右に揺れるのが見える。
「あの駄犬がどんな間抜けな死に方をするのか、それを見届けるのも一興かと思ってな」
振り返らずに答えて此方にひらひらと手を振ってから何の迷いもなく司令室から出て行った。最初から最後まで年相応な反応を隙間も見せなかったな、と途端に静かになった部屋の真ん中で呆れ混じりにぽつりと思った。
ソファの背もたれにどっかりと身を預けて液晶画面をぼうっと眺めやりながら思う。
果たして彼女の言う“駄犬”は死ぬだろうか。もしも彼女らが危機的状況に陥ったなら自分は一体どうするだろうか。
少し考えてから、あまりにも下らないことだったので途中で思考を断ち切った。
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執筆:2006/09/20
加筆修正:2009/08/22 |