全く、なんて日だろうと思う。
確かに『柘榴石』に属する人間にとって緊急発進の命は絶対で、楓だって怠けたりする気は全くなく精一杯任務を全うしようと内心ひっそりと意気込んでこの地に降り立ったわけなのだけれど、それにしたって感染者数が百五十一はちょっと、いやかなり多すぎでは無いだろうか。当たり前だが今までそんな大勢の敵を相手にしたことは楓にはない。今自分の隣で左目を抑えて荒い息を吐いている幼馴染の男もそうだろう。長いこと共にいる彼にそんな経験があろうものなら驚くというよりは唖然とする。対峙したとしても彼のことだから戦わずして逃げてくるだろうが。
だん、という何かを叩きつける鈍い音に視線を戻した。楓の精神力を活力に大地の力をこの世界から引っ張り出してきた幹で、双樹が感染者をリノリウム(と、この材質は何かと尋ねた楓に以前由理が教えてくれた)の床にたたきつけたのだ。具現化するわけではないので床板を突き破って大樹が生えたりしているのが気がかりだが、自分が呼ばれたということはこれくらいの世界干渉は許されているのだろう。あまり気にしないでおく。
「これで何人目ですの?」
感染者が全て地面に沈んだのを確認してからその場の全員に尋ねやった。隣では空が「うー」とか低い声で言いながらふらふらと立ち上がり蚊の有無を確かめんとコンタクトレンズをはめた左目を晒している。楓も戦闘続きで疲れてはいるが彼のこれはただ単に視力の違いに酔っただけだろう。
「んー、多分七十前後」
「ということは後八十程度ですわね」
「半分もいってねーのかよ」
聞かなきゃ良かったとばかりにフォー・セブンが嫌そうな顔をした。それは楓も同意見だが出来るだけ数の把握はしておいた方が良いだろう。万が一取りこぼしがあってはいけない。
「楓、だいじょうぶ?」
本人も疲れているだろうに此方を気遣うように双樹が言う。
契約した術者の精神力が無ければ精霊は自然に反するほどの力を発揮することが出来なくなる。急激な木々の成長などは精霊自身の力では行えず、そうなれば『鎖神』の任務に差し支えるのは明らかだ。恐らく双樹はそれを心配しているのだろう。ただしこれは全体の十パーセントにも満たない理由であろうが。
「安心なさい。心配せずとも貴方の契約者はそれほどか弱い存在ではありませんのよ」
努めて気丈な声で言う。限界を超えなければ弱音を吐けないというのは損な性格だと理解してはいるが身についた癖はそうそうなおるものではない。
「あれ……」
空が怪訝そうな声で首を捻った。
声に引かれるように其方に視線をやって、眇めた左目できょろきょろと辺りを見回している様に楓の方も怪訝に眉宇を寄せる。この忙しいときに一体何をしているのだろうかこの男。
「ん、どしたの空」真佳が聞く。
「いや、何か……この辺には蚊はいないっぽい」
もう一巡辺りを見回してから結論づけるみたいに空が言った。真佳がきょとんとする前で、楓の方もちょいと片眉を持ち上げる。此処まで歩いてきて蚊のいなかった地帯など無かったはずだが。
「いねーならいねーで問題無ぇだろ。考え込んでたって仕方無ぇ。おら、次行くぞ」
不穏な空気の漂う中フォー・セブンだけがその奇怪さに興味も示さず目の前の階段に足をかけた。黒い着物(と言っても勿論楓らの着ているものと同じ意味での言葉ではない。あれは洋服と言うらしいから)を纏った背を呆れ返るように見つめてから、彼が五段くらい上ったところで溜息を吐いた。転ばぬ先の杖ということわざを知らないのだろうか。いやそもそも世界が違うのだから言葉自体が存在しないのかもしれないが、それにしたって。
「まー、とりあえず行ってみるしかないね。虎穴に入らずんば虎子を得ずだよ、うん」
あきれ果てた此方の感情を察したのだろうか。真佳の方も尤もらしいことわざを持ち出して空笑いなど浮かべながらフォー・セブンの方を付いていった。あなた方二人は少々の問題が起こっても何とか出来るでしょうけどねと内心でむっつり独りごつ。視線は自然と一緒に取り残された幼馴染へと向いていた。
空の方は何でこっちを見るんだとでもいうような顔をした後、「おれらも行こーぜ。こんなとこで置いてかれたら堪んねー」あまり頼りにならないことを言って眼帯を付け直しながら、楓の方に背を向けた。
この中で頼りになるのはどうやら一人もいないらしい。
気苦労で頭を抱えたくなりながら半眼で(一番近くにいたので)空の背中にじっとりとした視線を投げかけながら一段目に足をかけて、
そこで何かに引っ張られたみたいに顔を上げた。
「なっ!」
それは誰の口から漏れたのか。
いつの間にか全員の視線が“それ”に浴びせられていた。階数で言うなら三階と半分、楓らが段上でぴったりを足を止めたその階段の終着点に仁王立ちでもするように“それ”は立っていた。