じーこじーこと独特の音を立ててダイヤルを回す。と言ってもこれは飽くまで形式上のものでしかない。世界の狭間、本来電話番号の必要としない場所に連絡を取ろうとしているのだから当然だ。今はただ単に電話機を媒介としているだけで、話したいと思えば“彼女”とはテレビの液晶画面やコップになみなみと注がれた液体の表面でだって会話出来るのである。ドラマ性が無いからしないけど。
 適当に十個の数字をダイヤルしてから光沢のある黒色をした、ちょっと間抜けな三角フラスコを思わせる筐体に乗っかったL字型の受話器を取った。呼び出し音。ぷつっと何かが繋がる音がした。


「はろう、朋美ちゃん」


 送話器に向かって語った言は、語尾に音符マークでもつけられそうなほどに上機嫌極まりないものとなった。





†応答願います、どうぞ。†





 本来電話は苦手な方だった。
 相手の表情は見えないし受話器越しの会話は聞き取りにくいしでも大事な用件だったなら言葉を理解するまで聞き返さなきゃならないし。だから電話しなければならない状況に追い込まれるとひたすら憂鬱になった。
 それでも今、自分とは違う世界を創造する相棒の“彼女”と電話越しに会話するのに、いつものメランコリックな感情は襲ってこない。幼稚園の頃からすでに仲が良かったからなのか、それともただ単に波長が合うだけなのかは分からないけれど。


『やほー、佐奈、どしたの〜? …って、聞かなくても分かってるけど』


 若干苦笑の混じったような口調で言われてつられたように苦笑する。自分と朋美、二人で協力して創った世界が『鎖神』本拠地のあるアスタルテなのだ。創造した人間がそこで起こった全ての事象を視ることなど造作もないことなのである。全く創造主というやつは緊迫感も劇的感も全くなくて嫌になるね。
 柳乃朋美。彼女こそ、『鎖神』組織の片割れと呼んでも差し支え無いであろう『天支』組織の創始者である。
『天支』の目的も此方の組織と殆ど同じ。世界に蔓延るウイルス(アノフェレス)を一匹残らず殲滅すること。(アノフェレス)をバグとするなら差し詰め『天支』や『鎖神』はデバッガーと言ったところか。


「うん。まぁ一応建前ついでに話すと、こっち側に失敗作(ジャンク)っつー厄介極まりないもんが出没してて、それ撃退するために『鎖神』の方で今寄生獣(パラサイト)の情報ほしがってるみたいなんよー」
『ありゃりゃ。それは大変。んじゃ、私も建前ついでに話すと、こっち側って由理みたいな天才科学者いないくて(アノフェレス)の調査ができないんよー、ってわけで情報が欲しいんだけど』


 お互い、紡ぐ言葉が何だか妙に白っぽくなっていることに気がついていた。
『天支』の本拠地があるのも『鎖神』同様アスタルテ。つまりは朋美の紡ぐ言の内容も全て佐奈には視えていた事柄なんである。両者共に知りえていることを、台本にある台詞をなぞるみたいに改めて口に出して報告するなんていっそのこと喜劇だ。


「あー、うん、了解。でも情報交換するたんびに一々私らが介入するっつーのも面倒だよねー」
『だよねー、せっかく組織立ち上げたんだから、やっぱこういうことはそういう役割の人がやらなきゃねー』
「そうそう。でなきゃわざわざ組織立ち上げた意味が無いしぃ」


 椅子の背もたれを大いに軋ませて足を組んだ。
 双方共にあの組織に自分らが介入するのをあまり好んではいないのだ。そんなものよりも自分の子どもらが奮闘する様を見たいと思う。少なくとも月村佐奈本人は。
 それに、逐一情報の提供を要請されるのは正直なところかなり面倒くさい。


『そーそー。流石佐奈分かってる〜♪ …うわ、一瞬私自分がカーラにダブって見えた…』


 受話器の向こう側で確実に頬を引き攣らせているであろう言葉遣いに空笑い。カーラと言うのは彼女、つまり柳乃朋美の創造した“子ども”の一人であり、天上天下唯我独尊他人で遊ぶのが生きがいの気まぐれで野良猫みたいなオトコノコのことを指す。
 親である朋美は勿論のこと彼の住まうアスタルテを共同創造した佐奈でさえも彼に家族愛に近い愛情を持ってはいるが、やっぱり流石に似て見られるのは遠慮したいというのが本当のところだったりする。そこまでドス黒い感情を飼ってはいないと信じたい。


『まぁそんな悪夢は置いといて。そういうわけだから由理のスーパーPCのアドレス教えてくれる?』
「はいはい、りょーかい。じゃあ情報交換っつーことで、こっちにも響くんとこのメールアドレスさくっと教えてってくださいな?」
『了解〜♪』


 おどけて言った佐奈の文言に返ってきたのは弾むような抑揚の了承。次いで発せられたアルファベットの羅列をあまり丁寧とは言えない殴り書きで紙片に書き写し、お返しに由理のメールアドレスを口頭で述べた。親でなければ個人情報保護法に盛大に引っかかっているところだが、幸いなことに世界の狭間にあるこの場所に一般的な法という概念は存在しない。


「あんがとね。そんじゃ、また」


 極軽い別れの言葉を告げて、相手が通話を切ったのを確認してから受話器を置いた。チリン、という小気味良い音が鼓膜を打つ。
『天支』の研究員の一人、柳沢響の連絡先をしたためた紙片を指先でつまんで目線の高さに掲げ持ち、そのまま無害なだけのそれを瞬きもせず睨む。視界の隅っこで『鳥籠』のウエイターが心配そうな視線をちらちら突き刺してくるのを感じてすぐやめた。真四角のメモ用紙をテーブルの上にぞんざいな感じに落としやる。


「何か光明引っ張り出してくれるといーけど」


 口の中だけで呟くみたいにそう言って、紙片の上からカウンターテーブルをこつこつと指先で叩いた。自分が発した小さな呟きは、古ぼけたラジオから微かに流れるジャズミュージックに紛れるようにして余韻も残らぬうちに掻き消えた。



■ □ ■



「これが『天支』におる研究員のメールアドレスどす。これから『天支』とのやり取りはメールを介して行っておくんなはれね、って佐奈はん言うてましたわ。要は“わざわざ創造主介して情報収集せぇへんように”ちゅうことでっしゃろね。ほんま、面倒くさがりな人で嫌になるわぁ」


 口を挟む間もなく白い腕の持ち主に正方形のメモ用紙を突き渡されてついつい一瞬だけ鼻白む。全くこの仕事仲間ときたら、無益な労働などちゃっちゃと終わらせてしまいたいもんだからって相手の反応を考えないで事を進める節があるのだ。“異世界案内人”のオリジナルは総じて皆協調性というものが欠落している。
 斯く言う由理もその“異世界案内人”という組織に属する人間の一人なのだが、自分は一介の研究員でありオリジナルとはまた別の存在なので協調性が欠落しているわけでは決してない(と自称する)。


「でも萠、わたしは『天支』のメールアドレスなんか欲してないよ? 寄生獣(パラサイト)の情報が欲しいって言っただけで、」
「そやさかいにその件はメール介してやっておくれやすと言うたやないですか。もう暫くしたら由理はんのアドレスにお求めのデータ送られてくるんちゃいますか?」
「って、勝手にわたしのメルアド教えたのっ?」
「そう言うてはりました」


 あっさり告げられた事実に思わず「あああああ」と項垂れる。相手が信頼出来るか出来ないかはこの際置いておくとして、他人に易々と人のアドレスを教えてしまうなんて少しモラルに欠けてやしないか。


「まあ……良いけどねもうそれは……。で、わたしはこのアドレスを登録しておけば良いの?」
「それでええと思います。それともう一つ。たまごの拡大画像を始め、(アノフェレス)関連の研究資料をまとめて『天支』に送ってやって欲しいんやって」
(アノフェレス)の研究資料を?」


 片眉をちょいと持ち上げて言われた言葉を反芻した。口振りからして一番重要なのはたまごの拡大画像の方なのだろうとは思うが……。
 まあ良いか。研究員たるもの未知のものに興味を抱くのは良くあることだ。それに、対峙する相手の情報は少しでも多く取り入れたいという心理も分からないでもない。
 腰を捻って後ろを振り返る。自分が一から作り上げたメインコンピュータがどっしりと、神殿の遺跡みたいな壮大さでもって壁一面を覆いつくしていた。場所は取るが何よりも頼りになる由理の相棒。
『鎖神』本拠地地下研究所。やっぱりこんな状況で休息を取ることなんて出来なくて、夕食後軽くティータイムを挟んだ後すぐに此処に戻ってきてしまった。何せ『鎖神』には研究員が由理一人しかいないのだ。責任は重大だ。


「……分かった。データは今全部このメインコンピュータに入ってるから、それは全部送る。他には何も用事無い?」
「ありまへん。これで全部どす」


 愛想を振りまいても益の無いと判断した相手に向ける事務的な口振り。アンダーリムの眼鏡の奥からこっちを射抜く冷めたみたいな無感情の目。
 由理みたいな同じ組織に属する仲間(と思っているのは由理だけかもしれないが)にすらこの仕打ち。彼女がいかに自己利益を優先する人種であるかは推して知るべしであろう。


「ほんならそろそろ帰る(いぬ)さかいに。データ転送、くれぐれも宜しくたのんまっせ」


 腿辺りまではある二つに結った三つ編みと桃色に染め上げられた着物の袂を翻し、実に素っ気無い声色で萠は言う。此方は呆れて物も言えない。
 萠の華奢な背中を半眼で見送る由理に、そんな彼女が一度だけ振り返った。


「呆けてしもてやらなあかんこと忘れへんように気ぃつけや」


 揶揄するように細められた深い青の双眸にようやっと感情らしい感情が乗せられたと思ったら、それもすぐに彼女の後頭部に隠れて見えなくなってしまった。氷みたいに冷めた表情が溶けたところで現れるのが嫌味っぽい顔ならあまり意味は無い気がする。彼女の本当の、心からの笑顔をまだ由理は見たことがない。


「捻くれ者……」


 遠ざかっていく背中に届かないよう口の中だけで呟いた。途端何だか精神的な疲れがどっと押し寄せてきて大きく溜息。
 全くどうしてこうわたしの周りにいる人間は屈折した子が多いのか。これじゃあ安心して研究に集中できもしない。などとお姉さんぶって考える由理である。
 渡された紙片を頭の上で掲げてみる。通常より高いところに位置する蛍光管の光に透かされて半透明な膜みたいになったメモ用紙に、人名とアルファベットの羅列が黒く浮かんで見える。
 柳沢響。その名とアドレスをきちんと登録しておいてから、まだ見ぬ『天支』の研究員への最初のメールを作成した。

執筆:2006/09/23
加筆修正:2009/11/29