正しく屋敷と呼ぶべき洋館に最初に連れて来られたとき、思わず感嘆の声を漏らしたのを覚えている。自分の生まれ育った世界とは別の世界に創られた古めかしい洋館は、友人の持つ家屋と比べれば圧倒的に劣る広さであるとは言え十分に立派な屋敷であった(そもそも友人の家が非常識にどでかいだけなのであまり比較の対象にはならない)。
左右対称に造られた十分な広さを有する三階建ての屋内は、組織内に方向音痴の人間がいるためか非常にシンプルな造りになっており真佳もたった一日でどこに何があるか把握出来るようになっている。
三角屋根の下に付けられた重厚な玄関扉を特に力を加えることなく押し開ける。キィ……と辛気臭い音を鳴らして扉が内側に開かれる。扉自体はそう古くは無いのだが多分佐奈がそう鳴るように気分で創った。
「たっだいま帰りましたーっ」
まずは建物二階分の空間を開けた吹き抜けの天井にまで届くくらい元気に帰館の挨拶。次いでぞんざいな扱いで観音開きの玄関扉を音を立ててばたんと閉める。
何を隠そう真佳は『鎖神』の一員として此処に住み込みで任務をこなしている連中の内の一人なのである。つまりこの館は自宅同然。自宅に帰ってきたらまずはただいまの挨拶、これ基本。
なのに。
「るっさいっ」
おかえりの挨拶の代わりにメゾソプラノの可愛らしい声と同時に分厚い本をとんでもない勢いで飛ばされた。一拍遅れて本のハードカバー部分が両扉の表面にぶち当たったみたいな殺人的な音が背後から真佳の鼓膜を容赦なく叩きやる。可愛らしい声には似つかわしくない怒気の孕まれた台詞から考えると多分本気で当てる気だった。そうっと後ろを振り返ると何十センチもある辞書みたいな上製本が中身をも巻き添えにして無残に横たわっているのが目に映る。あれが顔面にぶち当たってたら絶対ただでは済まなかっただろう。もしもを想像して思わず頬を引き攣らせてしまう真佳である。
「……ちょっ、危なっ。さくら、これ洒落になんないよ。当たったら死ぬよ。ぽっくりいっちゃうよ」
「安心しなさい、死にゃしないわよ。打ち所が悪かったら悲惨なことにはなるでしょうけど」
こういうことをさらっと至極真面目な口調で言うものだから堪らない。彼女は冗談を言うときにも声色を変えない人なので、それがどういう意図によって紡がれた言葉なのか判断に困る。
肺に溜まっていた空気を一遍に吐き出して、足元のハードカバー本を片手でよいしょと持ち上げる。想像以上に重かったのでもう片方の手も使った。本当になんて危ないものを投げてくるんだ、あの子は。
お城なんかに出てきそうなロビーの左右両端に分かれた階段を上った先に彼女、姫風さくらの姿はある。二階にいる人間を見上げ続けるのは首が痛くなりそうだったので彼女の鋭い銀の瞳からあっさりと視線を外して、右端の階段にとてとて向かう。佐奈から頼まれたものを蓮さんに渡すには、右側から行くのが早いのだ。
「ところで、何でさくらが此処にいるの?」
さくらに投げられた本を両手で抱え込んで階段の一段目に足をかけながら真佳は問う。彼女は確かに『鎖神』の一員ではあるけれど、真佳らと違ってこの本拠地に住み込みで任務を遂行する側では無かったはずだ。
「ちょっと蓮さんに用があったのよ。それももう終わったから帰るところ」
「……この本は一体」
「此処の図書室を覗いたら興味深いものがあったから借りようと思って」
「借り物を粗末にしちゃいけませんっ」
「大丈夫よ、佐奈のだから」
一体それはどういう理屈なのか。というか、お母さんっぽいことを言ったのにそれに関するツッコミは無しですか。
階段を上りながら(主に後者について)悶々と考え込みつつ階段を上りきってから、分厚い本を無造作にさくらに手渡した。「ありがとう」軽く微笑みながらさくらが言う。肩にかかる程度に伸ばされた茶髪からふわんと漂う花の香りと、きめの細かい白い頬に仄かに差した薔薇色に同性でありながら不覚にもどきりとする。友人という立場になってから結構な年月が経っているものの、こういう不意打ちにはどぎまぎさせられるくらいお顔の造形は整っているのだよなあこいつは。
VネックTシャツに黒のジャケットとスキニーという大人っぽい出で立ちも自分と同い年とは思えないほど上手に着こなしてて何だか軽く嫉妬する。真佳が張り切って大人っぽい格好をしてみても似合わないだけだ。
きぃ…と軋む音を立ててどこかの扉が開いた。分厚い本を胸に抱いたさくらと殆ど同時に真佳は自分の背後、音の出所に視線を向ける。
「あら。帰ったのね、真佳。おかえりなさい」
「ただいまです、蓮さん。頼まれたものはちゃんと佐奈に渡してきましたよー」
「ええ、そうみたいね。ありがとう。お疲れ様」
言って、蓮さんはエメラルドを思わせる幻想的な双眸を細め小首を傾げて淡く綺麗に微笑んだ。その拍子に肩上で切りそろえられた、シャンデリアの光を受けて光の粒が弾けるみたいにきらきら光る金の髪がさらりと揺れる。
金髪に緑眼という日本人離れした容姿を供え持つ彼女こそ、『鎖神』の指揮官たる双葉蓮さんである。
茶色のニット帽にシックな感じのロングコートを羽織った彼女は、確実にどこかの国の血が流れていそうなものだがハーフなのかクォーツなのかそれとも彼女自身がガイジンなのか、詳しいことは分かっていない。それどころか実際の年齢なんかも不明という、正しく“謎の多い女”なのである。若々しくも大人っぽい言動とかシミ一つ無い肌とかからは二十代のそれを連想させるのだが確証には至らない。答えを知っているのは恐らく蓮さん自身と、それから彼女を創造した張本人である月村佐奈だけだろう。
「んで、今度は佐奈からのお使い。これ、蓮さんにって」
真っ白のロングニットコートのポケットに突っ込んでいた洋風封筒をぴらっと蓮さんの方に掲げて見せる。真っ黒の封筒に明るい水色の蝋封が良く映える、ちょっとというか大分珍しい色合の封筒。
「あら」
察しがついたように蓮さんがのほほんとした声をあげる。対照的に真佳の隣に立つさくらの表情が強張った。
黒い封筒に水色の蝋封。何だか良くは分からないが色彩というものにそれなりの興味を抱いているらしい佐奈曰く、ナントカ現象とかいうのから引っ張り出してきたものらしい。
難しいことを一度に覚えてられるだけの理解力は生憎持ち合わせていないのでそこら辺は割愛するとして、要するにこの封筒が示す佐奈からのメッセージは、
「どうやら任務らしいわねえ」
他でも無い、『鎖神』の出動要請であるのだった。