窓から身を乗り出して照準向かって引き金を引いた。ぱしゅっと軽い音を立てて銃弾が放たれる。ガラスの割れる音が小さく聞こえて男ががくりと膝を折った。
 自分が気絶させたり真佳やアーティが沈めたりした犯人の半死体を見つけた輩を片っ端から撃っているのである。地に伏した仲間を見て一階に連絡を取られると非常にまずい事態になるので。世界の崩落を防ぐには一人の犠牲も伴ってはいけないのだ。誰がどう物語に関与してくるか、“名前の無い者”を制御し操ることの出来ない創造主には全くもって分からない。
 不貞腐れたみたいな空気を背中にびしばしと感じて目線だけで振り返った。強盗犯がいつ仲間の半死体を見つけないとも限らないので一瞥しただけですぐに視線をスコープに移す。
 天音同様伏兵を命じられたアウトマティア・フィー・ロドリゲスが、ベッドの隅っこの方で膝を抱えて拗ねていた。眉間にシワを寄せて若干半眼になりながらつんと唇を尖らせて虚空を睨んで。サイドポニーに結われた橙色の髪をぐりぐり弄りながら。
 スコープの先に視線を固定したまま、溜息に近い息を吐く。一度視線を外してもう一度戻してという動作を一拍のうちにしてしまってから、


「……んなぶうたれんなや。うちは佐奈(ディオネ)の判断を間違ってるとは思わんで」


 ついつい口を出してしまった。それにフィーが答える気配は無い。天音も理解しているのだ、彼女の言い分は。此処で雑魚を一掃するよりもいちばんの強敵に立ち向かいこの手で勝利をもぎ取りたいと、天音だって思っているのだから。だって雑魚と戦うより強いやつと戦う方が何十倍も楽しいじゃないか。
 しかしいくら何でも未練がましすぎやしないか。割り振られた事実は変わらないのだからそろそろ受け入れてしまえよ、とちょっとは思う。それはまだ十五歳の子どもであるフィーには少し難しいことかもしれないけれど。


「……あんなぁ」


 我ながら酷く呆れたような声が漏れたと思う。
 平静でいるかのように見えてその実結構嫉妬していた。天音よりフィーの方が緊急事態時に出動命令が下る可能性が高いからだ。どう足掻いてもいちばん強いやつと戦うことは出来ない天音と違って、万が一のときフィーには現場に赴く可能性が格段に高いのである。しかも緊急事態時に呼ばれる方が強い敵と対峙しやすい。
 十分に恵まれた状態でありながら自覚してないどころか不満を抱くフィーにむしろこちらがぶうたれそうだ。


フィー(フルゴラ)


 任務上でのコードネームではあるけれど、極めてはっきりした声でもって彼女の名を呼んだ。
 フィーの気配が漸くぴくりと反応を見せる。視線が背中に刺さるのをちくちくと感じて引き金を引いた。ガラスの割れる音に誘われて強盗犯の一人が仲間の半死体を見つけて一階に連絡を取ろうとしていた。ガラスは既に割れていたので今度はサプレッサーに抑えられた銃声と男が頽れる音しか天音の耳に届かない。


「――そんなに暴れたかったら、緊急出動指令下ったらすぐさまでも行って好きなように暴れてくればええやん」


 投げやり気味に、しかし確信を持って天音は言う。背中を突き刺す視線の主が訝しげに眉を寄せるような不自然な間があってから、フィーが想像していた通り訝しげに言葉を発した。


「…何言ってるの? だって(ボス)は、あたしを任務から遠ざけようと伏兵に就かせたわけでしょう? だったら暴れるも何も――」
「ここはアスタルテの、それも魔族の地ぃや」フィーの台詞を故意に遮ってスコープの位置を別の場所に移動させる。今まで倒した強盗犯の半死体に彼らの仲間が気づいた様子は無い。
 半死体の横を何気ない足取りで通過する人影があった。何気ない様子でありながらいつでも戦闘態勢を取れるよう腰に差したレイピアの柄にさり気なく手を伸ばしている。
 アーティ・ゲルツ。『鎖神』の一員であり、そしてアスタルテ国魔族の地で生まれ育った紛う方なき魔族である。この世界での魔族とは一般人を超えた身体能力と異常なまでの自己再生能力、それからこの世に生を受けたときから授かる魔力を有する者のことを言うという。どういうわけか彼には生まれもってあるはずの魔力が備わらなかったようだが身体能力及び自己再生能力は申し分ない。むしろ治癒能力に関しては周りの魔族より飛びぬけているくらいだ。
 彼の得ることの出来なかった、そして魔族にとって力の根源とも言える魔力について明確なことを天音は知らない。ただ魔力を介しある特定の自然物を具現化し自在に操ることが出来るらしいということは辛うじて知っている。何れ魔族と戦うことになったときのために、最低限のことを勉強しておいたのだ。


「ライマ。全身雷の固まりみたいなあいつを見ても、此処やったら魔族が自分の魔力でもって具現化した獣やと思われるんは間違いないやろう。人間っちゅーんは基本的に非現実を受け入れようとはせぇへんイキモンや。多少可笑しいと思うてもたった一人が思うくらいやったらただの気のせいで済まされる。…ってのが、(ボス)の見解やろう。そやったら、あとはフィー(フルゴラ)が誰も殺さんように――」
「失礼ね、あたしはヒトゴロシはしないわよ」心外とばかりに口を挟まれてちょっと考えるみたいな間を置いてから、
「――ほんなら建物壊しすぎひんようにすること、それから命令には極力答えること。そんだけ気ぃつけたら誰も文句は言われへんやろ。それに、(ボス)はあんたを任務から遠ざけようとして伏兵につかせたんちゃうと思うで」


 というか“伏兵”を“あってもなくても別に構わない備品”みたいに扱うなと天音は言いたい。緊急事態の切り札と称えられこそすれ、どうでも良い存在と言われる筋合いは全く無い。むしろ伏兵がいるからこそ安心して現場の人間が任務につけるわけであってなあ……(まあ天音も物足りない仕事だとは思っているのは事実だけれど)。
 頭の片隅でぶつぶつと文句を吐き出してから一拍置いて再び閉ざしていた唇を開く。


「むしろ(ボス)は、どっちかっちゅーとフィー(フルゴラ)に自覚して欲しかったんちゃうか。独りで戦ってるんじゃなく“仲間”と戦ってるんやっていうことを」
「………」


 考え込むような沈黙が降りた。その間天音はちょっと身じろぎしてスコープを介し建物内の様子を探ることに専念するよう心がけた。
 何だか物凄くセーシュンっぽいことを口走ったような気がする。そう思うと背中側がむず痒いようなもぞもぞする感覚に取り込まれるので自分の口から飛び出した台詞についてはあまり考えないことにする。


「……そうね、そうだったわね。分かったわ。自分に与えられた任務を全うしてみせようじゃない」


 吹っ切れたみたいなフィーの言に、天音は一人にんまりと満足げに、でもちょっと照れの混じった微笑を唇に乗せた。





†暗黙の了承†





 男の半死体の隣を平然と移動して、アーティはその半死体を一瞥した。
 米神のところに打ち身したみたいな青い痣が薄っすら見えた。半死体のすぐ傍にはゴム弾がひとつ、置き去りにされた玩具みたいに転がっている。それを何食わぬ顔で拾い上げてペインターパンツのポケットに落とし込んだ。ライフルを撃つのにはかなりの腕がいると聞くが、数十メートル離れた場所から的確に急所を狙い打つとは桃宮天音という人間はかなり腕の立つ狙撃主だと認めざるを得ない。
 この一週間で『鎖神』はかなりの仕事を請け負った。その全てを無事遂行することが出来たのは彼女のような優秀な人材が『鎖神』に寄り集まっているからに他ならない。
 リノリウムの床を踏んで一歩を踏み出した。一人、男の首裏を柄で殴り倒した以外には使っていないレイピアに軽く触れる。手加減して相手を静めるのが想像以上に骨の折れる作業であることを、この一週間で身を持って実感した。それに比べて人を殺すことの何と簡単なことか。

 頼むから、と佐奈は言った。
『鎖神』が出来てすぐの頃の話である。『鎖神』メンバーとなることを自主的に決めた人間を全員喫茶『鳥籠』に集めて(アノフェレス)の説明をひとしきり終えた後、掠れた、しかし意志の強い声で彼女は言ったのだ。

 頼むから、人殺しはしないで欲しい。『鎖神』は同族を(、、、)殺すために在るものじゃない。

 驚くことに、彼女は最初から境界線など取り付けていなかったのだ。自分が名前を与えた者と無意識下のうちに創り出した“名前の無い者”の双方に、明確な隔たりは取り付けたりはしていなかったのである。
“名前の無い者”がどう物語に影響してくるか分からないから、とかいうような大義名分では無い。ただ母親の立場として、子ども同士の殺し合いなど見たくなかっただけなのだろう。
 アーティがそれに従う道理はしかしながら無いに等しい。殺してしまうのが何より楽だし(アノフェレス)感染者に対する解毒剤が未だ発明されていない今、彼らを静めるのはそれしか無いようにも思う。
 それでも今、刃を血に染めていないのは何故なのか。殺さない方法を無意識の内にシミュレートしているのは何故なのか。未だ答えは見つからない。

 曲がり角の手前で足を止めた。此方へ近づいてくる気配がある。反射的にレイピアの柄を握りこんだ。ここでもやっぱり殺さない方法を模索している自分に少し呆れる。
「お」角の向こうで意味の成さない一音が聞こえてからひょっこりと顔を出した少女の深緋色の瞳に安堵するように緩く吐息してレイピアから手を離す。深緋色の瞳がニッと細められた。跳ねるように全身を現して片手を挙げて曰く。


「やっほ、アーティ(オルフェ)、久しぶり☆」
「……数十分前に会ったばかりだったように思うんだけど?」


 冗談か本気か判別つかないボケには半眼で適当に突っ込んで、相手の体をざっと見回す。見たところ怪我は無いようだった。どうやら今のところお互い無傷だ。


「そっち、もう全部終わったんだ」
「一応ね」
「こっちも犯人さんは全員沈めまくった後だよ。三階にはあんまし人いなかった。天音(ニケ)の手伝いもあったからかな」
「だろうね」


 真佳からのどの報告にも通じる相槌を打って窓の外(此処からでは天音のいる宿がどこにあるのかは分からない)と前方(つまりは真佳の背後)を一瞥。一階に出入り口があり人質がいるのだから二階、三階の警備が薄いのは予想出来ていたことだ。
 アーティの淡白な反応を意に介した風も無くニパッと真佳がまた無邪気に笑った。此処が戦場であるということを彼女は理解しているのだろうか。


「ん、じゃあ、早速二階の制圧に移りましょーか」


 どこか弾むような口調(だから此処が戦場であるということを彼女は)で言い放って踵を返す。彼女のポニーテールがふわりと舞うのを視界の端で捉えつつアーティも階段方面につま先を向けた。
 走りだそうとした刹那、


「生きて会おう」


 まるで自分自身に言い聞かせるみたいにぼそりと呟かれたそれに思わず首を振り向けてしまったときには彼女の姿はもう曲がり角の向こうに消えていた。たかだか強盗犯相手に可笑しなことを言う(『鎖神』の任務として優秀なテロリスト集団をも相手にしてきた彼女にとっては“たかだか”の相手に間違いない)。
 うろんな視線を真佳の背に突き刺して、今度こそアーティは地を蹴った。



■ □ ■



 想像物と言うものは生き物なのだと由理は思う。
 頭の中に形の輪郭がぼんやりと出来上がる。ここをこうして、こういう機能をつけて、それだったらあの世界の鉱石が使えるかもしれないとかいうようなことを頭の中で更に突き詰めて考える。そうしたらもういても立ってもいられない。自分の心臓と想像物が完璧に同調して早く形にしてくれしてくれと息づき胸がこそばゆいくらいに疼き出すのだ。
 お尻がもぞもぞして変に焦燥して、だからそういうとき由理は食事中であろうと入浴中であろうと構わず部屋から飛び出して地下の研究室に閉じこもる。
 そういう理由もあり『鎖神』本拠地に住まう唯一の研究員合川由理は、此処数日碌に眠りもせずただただ本能の赴くまま作業に没頭していた。最後に物を口に入れたのは果たしていつだったであろうか。研究室の引き出しにカロリーメイトを常備していたはずだが今回手をつけたっけ。つけたようなつけてないような。思い出せない。
 しかしそこまで作品に没頭したおかげで消費期限を過ぎることなく頭に浮かんでいたおぼろげな輪郭を早々に形にすることが出来た。今はただ波間を漂うようなふわふわした感覚に侵されているだけで疼くようなこそばゆい感覚は成りを潜めている。
 そのふわふわした感覚に支配されて足が泳いだ。危うく踏みしめるべき地面を失い頭が真っ白になった状態で条件反射みたいに階段の手すりに縋り付く。右足がしっかりと地面を踏みしめた。危うく階段の一番下まで転がり落ちていくところだ。
 ……一刻も早く発明品の完成を(はちす)に報告して、早々に布団に潜り込もう。いい加減身の危険を感じて若干顔を青くしながらそう固く心に決めて、今度は慎重に次の段差に足をかけた。
 幸い一度もすっころんだり眩暈を起こしてぶっ倒れたりすることなく蓮の私室兼司令室にたどり着いた。ロビーの左右にそれぞれ延びる階段の、右側を上がってすぐのところに蓮の部屋はある。ちなみに由理たち『柘榴石』の面々の寝室はこの更に上、三階。ロビーの階段の調度中央にある階段を上った先がそうだ。
 コン、コン、コン
 ときっちり三回ノックする。少しして蓮ののほほんとした返事が入室を促したので「失礼します」とかいう、学校の職員室入室みたいな断りを入れて扉を開けた。こんな真面目腐った挨拶を日常的にやるような性格はしていないのだが、何故だか蓮さん相手となるときっちりしないといけない気がしてくるのだ。そのミステリアスとも言える魅力は是非とも盗んでおきたい能力である。


「あれ」


 思わず頓狂な声が口をついて出た。
 部屋の主である蓮が客用のアンティークソファで紅茶を嗜んでいた。
 いや、そこだけ見たら別に驚くべきところなんて何も無い。お茶の時間が好きらしい蓮が優雅且つ流麗にティーカップを傾ける様は見慣れてこそすれ驚きの声を上げる類のものではない。
 由理が目を瞬かせたのは、蓮の向かい側の席でさくらが共にお茶の時間に興じていたからだ。
 天井から垂れ下がったアンティークランプの控えめな光が、さくらの頬に彼女の長い睫毛の影をくっきりと落とす。リップも塗っていないにも関わらずほんのりと桃色に色づいた潤った唇をティーカップの縁に静かに触れる様は大層優美で、部屋が部屋だけにこのままカメラを回しても十九世紀を舞台にした英国映画のワンシーンに使えそうな感じである。
 相変わらずに羨ましいくらいの整った顔立ちの少女が此方に振り向いた。茶色の髪がふわりと揺れて何だかそれだけでうおっとなる。
 姫風さくら。極々普通のありふれた対面を果たして知り合いになり、並々ならぬ事情を経て友好関係を築いた、由理の友人の一人である。此処に住んでいる『鎖神』メンバーでは無いので彼女が蓮さんの部屋にいるのは正直珍しい。
 そのさくらが由理の顔を見て銀色の双眸をすっと細めたので思わずぎくりと身を強張らせる。美人に凄まれたら人一倍怖く感じる。しかもさくらは、どちらかというとクールビューティという形容がぴったり当てはまるような女子なのだ。


由理(アテナ)。アンタまた徹夜したでしょう。“夜更かしはお肌の大敵”なんじゃなかったかしら?」


 以前自分が豪語した覚えのある台詞回しをされて(まあテレビとかで良く使いまわされる類のものなのだが)うっと思わず言葉に詰まった。何故バレたのだろう。若しかしたら目の下にクマでもこしらえているのかもしれない。研究室を出てから鏡を見ていないのではっきりしたことは分からない。


「……うん、そうなんだけど、でも好きなことをしてる方がお肌のツヤが良くなるっていうじゃない、だからね……?」


 視線をあっちこっちにやりながらしどろもどろに言い訳すると「昼間にすれば良いじゃない」何とも無慈悲に一刀両断された。「研究室に篭りきりの間どうせご飯も抜いてたんでしょう。栄養のバランス取らないとすぐにボロが出てくるわよ」言ったと思ったら自分の額をちょんとつついて「ニキビ出来てる」「うそっ」反射的にぱちんと自分の額を両手で押さえてしまう由理である。あーあ、そういえば毎日欠かさず飲んでた野菜ジュースもここのところ飲んでなかったのだった。というかそもそも洗顔も満足にやってない。後で治療薬塗っとかないと……。
 研究員としては切り捨てるべきところなのだろうが女子としては絶対に譲れないところである分、研究員と女子の両立はキツいよなあと苦く思う。
 額を押さえた手はそのままにブルーな色合いの濃い溜息をフローリングの床に投げかける。今まで気を遣っていた分落胆の感情は容易に由理の心を蝕んだ。寝不足も相俟って何だか目の前がくらくらしてきたような。
 女子二人の会話をにこにこと見守っている蓮さんに発明品の報告をしてとっとと寝床に就こうかなあ。
 と、思った由理の頭に、数十秒の時間を経てようやっとさくらの口にした言葉ががつんと思考に食い込んできた(思考能力が著しく低下している気がする。本気で脳を休ませにかからないとヤバイかもしれない)。


「……って、“アテナ”? え、何、若しかして今、にんむちゅう……?」


 上目遣いで伺うとさくらが無言で、蓮が「ええ」と相槌を打って頷いた。
“アテナ”は任務時にのみ使われる由理のコードネームだ。言われてみればさくらの目の前にあるノートパソコン(パールホワイト)の液晶画面にはどこかの建物とその周りを取り囲むように立つ数十人の団体という、どこからみても物々しい印象のある映像が映し出されている。由理が研究室に閉じこもっている間一体何があったのだろう。
 問うような視線をちらりとさくらに向ける。それを受けてさくらがティーカップを受け皿にかちゃりと置いて口を開いてくれた。


「連続犯らしい強盗がアスタルテ魔族の地にある宝石店に侵入したのよ。物語の重要人物の目の前で起こった事件だから、(アノフェレス)が関与してる可能性は十分高いらしいわ。今、強盗犯は人質を取って立てこもってるみたいで治安部は手が出せない状況。人質の数と犯人の数は不明。現場に行ってるのは真佳(シャパシュ)アーティ(オルフェ)の二人。現場近くに潜んでる伏兵は天音(ニケ)フィー(フルゴラ)。で、私と(ボス)はここで待機。――質問は?」


 畳み掛けるように必要な情報だけを並べ立てられたそれを脳に叩き込んで、こくりと一つ頷いた。「うん、無い。ありがとう」説明してくれたことに対する礼を述べてから、普段着の上に羽織った白衣のポケットに無造作に手を突っ込みふらりとした足取りで蓮らの座るソファへと向かう。それを見てさくらが訝しげに片眉を跳ね上げた。


「……まさか、このまま寝ずに任務に参加するって言うんじゃないでしょうね?」
「だって寝てられないでしょ、皆が頑張ってるときに」


 言いながら目をしょぼしょぼさせてさくらの隣に半ば崩れ落ちるみたいに腰を下ろす。隣でさくらが何とも形容しがたい複雑な顔をしたが、由理が任務に参戦することに関しては特に何も言ってこなかった。


「――あら。真佳(シャパシュ)アーティ(オルフェ)は既に二階を制圧したみたいね」


 自分の耳、性格にはインカムのスピーカー部分を指で押さえて蓮が報告してくれた。蓮とさくらはインカムを装備しているので真佳とアーティの報告が入ってくるが、由理には当然ながら聞こえてこないので実際口にしてくれるのはありがたい。
 ぐい、と不意に完全な死角から何かを差し出されて思わずのけぞった。視覚がすぐに追いついて漸く差し出されたものが何なのか由理は脳で理解する。
 ティーカップだった。白っぽい湯気がゆらゆらと立ち上る、上品な感じのティーカップ。


「……研究お疲れ様。後でコーヒーでも淹れてあげるから一先ずはそれで一服しなさい」


「……うん、ありがとう」右隣からさくらの声が聞こえて若干どぎまぎしながらティーカップを受け取る。一人暮らししているのだから水仕事もこなしているはずなのに、彼女の手は白くて荒れた様子は無い。ずるい。
 一口だけ紅茶を喉に流し込む。冷えた体がじんわりとあったまったような気がしてほうっと一つ息を吐いた。

執筆:2006/09/15
加筆修正:2009/06/24