男の服をクナイで壁に張り付けにして、容赦なく腹に膝蹴りを入れたら蛙がひき潰されたみたいな濁った悲鳴を上げて男がそこで失神した。一応放ったクナイは全部回収しておいてからその場を離れる。壁からずり落ちるようにして男が床に倒れる音が後ろから聞こえたが意識を取り戻したわけでも無さそうだったので振り返らない。
 これで十六人目。三階同様二階もあまり人を配置している様子は無い。
 そろそろ自分の倒した連中からの連絡が来ないとか言って一階が騒がしくなっても良い頃だろうと思う。最短方法で強盗犯を沈めてってるのは良いけれど、部屋とかしらみつぶしに探すのはやっぱり結構時間がかかるなあ。
 次の曲がり角が確か三階でアーティにばったり出くわした場所だと思う。でもまだ気配を感じないところを見ると、此処には着いていないらしい。もしもアーティが気配を消していても真佳には何となく分かるので見逃してるということは無いと思う。これは勘とかいうのではない。いくら気配を消していても心臓が機能している限り気配の“核”みたいなものは察知出来るはずだ、という祖母の無茶苦茶な自論を元に徹底的に分かるよう訓練させられた。ちなみにうちの祖母、秋風撫子は真佳の父方のお祖母ちゃんであり真佳に戦闘のいろはを強制的に教えた張本人である。当然ながらそこに真佳の意思は無い。
 此処で待っているべきかもうちょっと先に行ってみるかで少し迷った後、結局もうちょっと先に進んでみることにした。待ってたら待ってたで「暇そうだね」とか嫌味っぽく言われそうなので。
 しかし数歩も行かないうちに廊下の先から見慣れた格好の少年が姿を現したので「お」とその場に立ち止まる。憲法色の短髪にはしばみ色の双眸、真佳より数センチばかり高い身長。うむ、間違いなくアーティ・ゲルツその人に違いない。
 互いに認識したと同時にちらりと真佳の後ろを目で示してアーティはすぐさま踵を返した。二階制圧完了。それぞれ当初の予定通り一階に下りる。……とかいうようなことを視線で言ったのだろう。それにしても何と連れない反応だ。いや、アーティがすっごいにこやかに無事を喜んでくれたりしたらそれはそれで怖いのだけれど。今すぐ恐怖の大王が降りてきそうだ。
 軽く肩を竦めて真佳もくるりと踵を返した。また階段のところにまで戻って、一階分の階段を駆け下りなければならない。
 ふー、と長く息を吐いた。
 いちについて。よーい、……どん!
 一人胸中で呟いてから、弾かれたように駆け出した。





†定められたレールの破壊†





『本部へ本部へ。はろう、さくら(ウェヌス)。二階制圧かんりょーだよー。今さっきアーティ(オルフェ)に会った。アーティ(オルフェ)から何か連絡いってますかー?』
「ええ、あったわ。アンタと同じく二階制圧の報告がね」
『じゃあ良かった。これから一階下ります。(ボス)、指示お願いします』
「ええ。一階に下りても報告はしなくて良いわ。装飾品形態通信機(オプティコ)についた発信機で貴方たちの居場所はすぐに割り当てられるようになったから」
『……ってことは、今由理(アテナ)、そこに?』


 少し驚いたようにインカムの向こうから真佳が言った。彼女がここ数日研究室に閉じこもっていたことを知っているのだろう。ということはつまり由理が徹夜続きなのだろうということも知っているはずだ。由理が閉じこもる時、大抵彼女は寝ずに自分の仕事をこなす。
 このノートパソコンに発信機の追跡機能を展開出来るのは由理だけであるが、その後のパソコンの操作は下手なことをしなければ大方の人間には使いこなせる。追跡機能が使えるようになったからと言って由理が現在進行形でこの場にいることの証明にはならないが、さくら同様由理の友人である真佳はちゃんと知っているのだ。
 誰かが任務をこなしている最中、由理は自分だけ休んでしまうような性分をしていない。『鎖神』の任務に関してはそれは特に顕著に出る。
 理由はどうあれ、実際由理は真佳の言う通りさくらの隣にでんと腰を下ろしている。ご丁寧に自分専用のインカムまでつけて。目の下に薄っすらと浮かんでいるクマには一先ず見ないフリをしておこう。
「うん、いるよ」口に含んだコーヒーを喉に流し込んでから、けろりとした声で由理が答えた。


『いつか睡眠不足で死ぬよ』


 レシーバーの向こうから呆れたような真佳の声が聞こえた。さくらは内心小さく頷く。


「死にそうになったら自然とどこででも寝てるよ」
『そうかなあ。そのまま目を覚まさないのでしたとかありそうで怖いなあ』
「無茶な戦闘の末に死んじゃいそうな真佳(シャパシュ)に言われたく無いわー」


 しれっとした顔で言ってからカップの縁に口をつける由理。それにも一理あるのでやっぱり内心頷くさくらである。
 その間言い返す言葉が思いつかなかったのか沈黙に徹していた真佳だったが、液晶画面上に浮かぶ真佳を示す発信機の点滅が階段に近づいたらこれ幸いとばかりに話の方向性を捻じ曲げた。


『もうすぐ階段です。犯人さんに見つかったらあれなので一端切ります』
「はいはい。絶対生き延びなさいよ」
『言われなくとも』


 軽いやり取りの後通信を切った。
 これまでの話を全部耳にしていた(はちす)がくすくすと上品に忍び笑った。


「相変わらず仲が良いのねぇ。そんなに仲が良いなら、真佳(シャパシュ)由理(アテナ)みたいにさくら(ウェヌス)も此処に住み込んでしまえば良かったんじゃない?」
「……そうなったら確実に胃に穴が空くわ」
「あら、そう? 本拠地にいない間ずっと気を揉んでいるなら此処にいた方がずっと胃に優しいのでは無いかしら」
「…………」


 恨めしげな視線を蓮にやって、すぐに視線を外した。蓮の言ったことは大体その通りだったので言い返す言葉が見当たらない。
 さくらが真佳たちの傍にいたままでは絶対に成長出来ないと思ったからこその選択だというのに、簡単に言ってくれる。なんてことを投げやり気味に考えた。さくらが『柘榴石』に入らないのは真佳らとさくら、双方の成長の妨げになると踏んだからであって、断じて心配かけさせられるのが嫌だからという理由では無いのである。


「二人とも階段のとこに着いたみたい」


 由理の言葉にたゆたう紅茶の表面から視線を上げてノートパソコンの液晶画面を映した。青と赤の印がそれぞれ別の場所に設けられた階段の滑るように下りていく。二階の間取りから一階の間取りの方に目をやった。数秒の遅れがありながらも二人の靴底が一階の廊下を踏みしめる。


「……あとは人質の解放ね」


 呟いた。真佳とアーティにとって、強盗犯をお縄にするのはそう難しいことではない。人質という“足手まとい”が無くなってくれさえすれば事態はすぐに終結に向かうだろう。真佳と戦場を潜り抜けてきた経験のあるさくらにはそれが良く分かる。
 しかし蓮の表情は晴れなかった。ソファに身を沈め左手にソーサーを、そして右手でティーカップを弄びながら厳しい顔で。


「……そうね、人質の解放さえこなせれば後はあの子たちに戦闘能力で敵う相手はいなくなるでしょう。でもこの一件……相当頭の良い人間がトップにいるのは間違いないわ」
「……っ」


 由理の体が目に見えて強張った。それを横目で捉えて蓮のエメラルドグリーンの双眸を真正面から見つめやる。
 頭の良い人間。それはそうだろう。でなければこれまで治安部を欺きながら数々の強盗をやり遂げてきたとは思えない。だって此方の(つまり魔族側の)治安部にはコウ・リアコードがいるのだ。治安部大将の地位につき『鎖神』の一員たる彼が並大抵の強盗犯を捕まえ損ねるわけがない。部下がよほどの無能で無ければの話だが。


「……万一の場合は、どうすんの?」


 隣から聞こえたのは喉の奥から搾り出したみたいな硬い声だった。
 ちらりと左隣に視線を送る。母親譲りらしい少しくすんだ金髪が邪魔をして、この角度からでは若干俯きがちに液晶画面を凝視している由理の表情はうかがい知ることが出来ない。
 彼女の側頭部から二秒も待たずに目を逸らし、少し日に焼けた天井の方に視線を流した。


「万一あいつらが失敗しても伏兵がいるし、それが駄目でも『鎖神』全員かき集めてでも鎮圧させるでしょうよ」


 言ってもう冷たくなった紅茶を喉に流し込んだ。
 理解していた。由理の求めている回答はこれでは無いことくらい。だって彼女が心配しているのは任務の成功なんて生ぬるいものでは無いのだ。由理が気にかけているのはいつもたった一つだけ。
 それでもわざとズレた答えを舌に乗せたのは、さくら自身の胸中に沸いた不安の種を払拭するために他ならない。ネガティブな発言を口にしたらそれが本当になってしまいそうで。
 怖いから、心配だから、だから早く帰ってこい。
 自分の吐息で紅茶を揺らして、祈るように目を伏せた。



■ □ ■



 階段から下りて数歩廊下を突っ切り、商店に続く扉の前で見張り番をしているらしい男二人を体術だけでどうにか静めた。今まで邪魔な人間は急所を一突きで殺してきたので、生かしたまま沈めるというのは一週間経ってもまだ慣れないのだけれど。……そもそも慣れる必要はあるのかどうかと、ここ一週間幾度と無く自分に問うた質問を胸中で繰り返して、小さく一つ舌打ちした。
 若しかしたら自分は彼女が無意識下で創った“こいつら”を兄弟と見なしているのだろうかとかいうようなことを投げやり気味に考えたら嫌な気分になったので扉に近づく途中わざと気絶した連中の手の甲をぐりぐりと踏んで行く。
 片扉の隙間から店内の様子を伺ってみる。
 人質は締めて七人程度。主に女と老人で構成されており、全員がロープで縛り上げられ一箇所に集められている。その周りを十五人ほどの男がぐるりと囲むように立っていた。各々武器を携えていることから奴らが残りの強盗犯だろう。
 裏口に案内してもらう最中、コウから強盗犯のことを詳しく聞いた。同じ手口でありながら毎回人数を変えて盗みを働いている奴ららしい。恐らくは今立てこもっている連中より実態は更に規模の大きい組織だろうとコウは踏んでいるらしかった。
 戸口の隙間からリーダー格らしき人物を探ってみる。大きな組織を動かすにはリーダーの存在は必要不可欠。代役でも立てていない限り組織のリーダーは必ず此処にいるだろう。何せ魔族は魔力に頼るあまりトランシーバーなどの通話手段を持っていない場合が殆どなので。
 今まで難なくこなしてきた分治安部に取り囲まれたことで余計に焦りを感じているのだろう、肩がぶつかろうものなら途端に罵り合いに発展しそうな男共とは違って、ただ一人冷静に周囲に気を配らせている男が目についた。
 剛毛そうなボリュームある黒髪に澄んだアイスブルーの目をした男である。がたいの良い体躯は他の強盗犯と変わらないのに、身にまとう雰囲気は隙あらば獲物を食い殺そうと身構える熱帯長草草原地帯の肉食獣に似ている。
 上唇を軽く舐めた。毎回強盗に向かわせる人数を変え、治安部の誰にも見つからずにやりすごしてきた頭の切れる“組織のリーダー”。奴しかいない。


真佳(シャパシュ)アーティ(オルフェ)。返事はしなくて良いわ。二人とも、今からきっかり十秒後に仕掛けて頂戴。出来るだけ人質の保護を優先にね』


 レシーバーの向こうから飛ばされた指示に左手首にはめた腕時計に視線を落とした。一定のリズムを保ったまま秒針が一秒一秒を正確に刻む。十、九、八――扉の影に身を潜めながら過ぎ行く時間を拾い上げる。
 どんっ
 壁を叩いた鈍い音が耳に入って扉の向こうを一瞥した。少なくともリーダーでは無い下っ端らしき男が歯噛みをして近くの壁に拳を叩きつけていた。
「車はまだ用意出来ねぇのか!」壁を殴った男が吠える。煙草を燻らせながらそれに答えたのはリーダー格のあの男である。


「落ち着け。治安部の時間稼ぎさ。どうせすぐに向こうも降参せざるを得なくなる」
「けどよぉ、あんまり長引くと奴ら突入しかね無いとも限らねぇぜ? それに上の階の奴らと連絡が取れないのも気にかかる……」
「ああ……」煙草の吸殻をリノリウムの床に吐き捨て踏みにじってから「なんていうことは無い。ネズミが入り込んでんだろう」
 本当に何でもなさそうに言うので一瞬何を言っているのか理解出来なかった。思わず身を硬くしてレイピアの柄に手を添える。額に冷たい汗が浮かぶ。残り六秒。


「ネ、ネズミって……! まさか治安部の奴らか!?」
「まァさか。奴らにこんな芸当出来るはずが無ぇ。精々外でおどおどおどおど俺らの芸術を見てるだけしか出来ねぇ無能集団さァ」
「じゃあ誰が……っ」
「強いて言うなら自警団、っつーところかねぇ」


 柄を握る右手に汗が滲む。見るものを張り付けにするような物騒な光を孕んだアイスブルーの目が周囲を舐めるようにぎょろりと動く様を見やるだけで息が上がるのを感じる。
 此方の存在に気づいているのだろうか。いや、気づいてはいるが場所が分からないのだろう。アーティらの居場所を割り出したと同時に奴なら即座にあの手に持った鋼の機関銃で打ち込んでくるに違いない。
 残り五秒を数えたところで、銃を構える乾いた音が耳についた。続いて誰かの引きつったような悲鳴が小さく弱く鼓膜を叩く。時計盤から目を逸らして見れば、リーダーと思しき男が機関銃の銃口をロープで拘束された女の米神に向けていた。
「ちょ……っ、そっちに銃口向けてどうすんスか!」部下の一人が武器を構えたままあわあわと男に待ったをかける。


「人質の一人や二人殺したところで構やしねぇさ。こうすりゃ治安部の連中もこれ以上時間稼ぎ出来なくなるしな。なぁに、心配すんなよ、人質なんて山といるんだぜ?」


 どこか狂気染みた笑みで頬を引きつらせて男が正面扉を背にした格好で、つまりはアーティらの潜んでいる方向向かって高らかに声を張り上げた。ただし銃口は相変わらず女の米神に向いている。


「よぉ、聞いてるんだろ? 自警団の皆さんよォ! いいか、今すぐ武器を全部捨て両手を挙げて姿を見せろ。なに、悪いようにゃあしねぇ。ちょいと礼をさせてもらうだけだ。反抗しようもんなら――女の命は無いぜェ?」


 言い切るや否や銃口を米神に押し付ける男が上げる引きつった笑い声に生理的な嫌悪感が背筋を這い上った。残り時間三秒を秒針が刻む。
 出来るだけ人を殺さないように――それは任務の大前提とも言うべき命、否、願いである。が、此処で出て行くわけにはいかない。今回蓮が下した作戦は強盗犯が油断しきっているときにこそ効果を発揮するのであって、今、それも人質に銃口を向けている者のいる中使っても意味が――
 何かが店内中央に投げ込まれた。
 それに思わず舌を打つのと投げ込まれた発煙筒から霧のように深い煙が店内を包むのは同時だった。考えなしにもほどがある。
 咳と焦燥の声があちこちで上がった。それを怒号で落ち着かせるリーダー格の男の声は確かに耳に届くが機関銃の発砲音は聞こえてこない。所持している武器が機関銃であるが故他の人質に弾が当たる恐れを考慮したのだろうか。人質が全滅してしまったらそこでチェックは確定だ。ハンドガンに形状を変えてしまえば殺すことも可能なはずではあるが……。
 ちらりと辺りを確認してから白煙の充満する店内に飛び込んだ。眩暈がするほどの白の世界に一瞬足を止めながらも想定していたルートを伝って人質が固められた方へと駆ける。ロープに縛られた老人の一人が近くに立ったアーティの姿を見とめて軽く目を見開くのを視線だけで黙っているように命じて、先ほどリーダー格の男に銃口を突きつけられていた女に視線を流す。
 褐色の肌に豊かな黒髪を持ったそこそこに若い女だ。その隣に真佳がしゃがみ込んで何やら小声で会話を交わしていた。リーダー格の男を退けたのはもしや真佳なのだろうかという可能性が浮かんでくる。真意は定かでは無いがまあ死んで無いなら良い。
 人質の方に背を向ける。煙が晴れるまであと数十秒……内心でカウントを始めやり、警戒は怠らないままただ時を待つ。

執筆:2006/09/16
加筆修正:2009/06/30