嗅ぎ慣れたその風に、
 レイスレットの口元が自然と笑みを浮かべた。





任務開始





 創造主である柳乃朋美が出口として繋いだのは、この世界ではありふれた山のふもとの森の入り口。森の周りには野原が広がり、空は高く空気は澄み渡り瑞々しい。温暖化やオゾン層の破壊、水質汚染などとは無縁のこの世界がやっぱり一番いいと、上機嫌でレイスレット=ザートは伸びをした。

 
「ぃよっしゃ!!とっとと任務終わらしちまおうぜ!!…って、あ?」


 振り返ったレイスレットの磨いていない金のような目が見た光景に見開かれ、瞬かれる。
 彼の背後では同じくこの世界に移動した凪 夜独と如月 翠が≪膝と肘をついて地面に伏せていた≫。


「なんだ?どした?」
「ぐ…っ、重…」
「な、ん、なん、だ…この…ッ、地面に…引っ張られるような…ッ」
「おー」


 その消え入りそうな言葉を聴いてレイスレットが悠然と辺りを見回し―――やがて何か思い至ったのかポンと手を打つ。そして、二人に向き直り口を開いた。


「多分ここルヒナ草原だわ。十何年か前から重力増えだしたとかいう」
「…は?」


 何か、とてつもなく不可思議な台詞が聞こえて夜独が顔を引き攣らせる。「重力が増える、だと?」搾り出された問いに、何をそんなに驚くんだ、と、不可解気に夜独を見下ろし「別に可笑しくねぇだろ」と言葉を返す。


「魔力が溜まりゃ地面だって浮くし燃えるし水湧くだろ。何か変か?」
「充分過ぎるほど異常だ。」
「強く同意する。」



 力強く言い切られ、何言ってんだ、と、眉間に皺を寄せたレイスレットは再び思い出す。そういえば以前月留が、壁向こうの世界じゃ島は浮かないし地面が何年も燃え続けるなんて事も無いし水だって決まった場所にしか湧かないんだとかなんとか、可笑しなことを言っていたか。
 この翠とか夜独とかいう二人の世界も、月留のいた世界に構造が似ているらしいからそうなのかもしれない。
 やっぱり壁向こうってのは気持ち悪い世界だなぁと思いながら、レイスレットは呟いた。


「まぁ、とりあえず此処らの重力はだいたい壁向こ…地球の二十倍ぐらいだぜ。」
「「?!」」


 その容易く言われた事実に二人の顔が青ざめる。
 二十倍。つまり体重が四十キロあれば八百キロになるのだ。
 いきなりそんな状態に放り出されて立っていられるほど自分は人間を辞めているつもりはない。だいたい、何故レイスレットは平然としているのか。その横で平然としている魔王は別に不思議ではないあれは正真正銘化け物だから。しかしいくらこういった世界の住民と言っても急激な重力の変化に対応できるなど可笑しい。そう途切れ途切れに問えば、返ってきたのは「『遠駆け』だからな」という意味のわからない答え。


「『遠駆け』…?」
「あぁ?群れを離れて遠征する戦士の事だ。『遠駆け』は自分の周りだけ適当な環境に変える刺青を身体に彫ってっからある程度は平気なんだよ。んな事も知らねぇのか?」
「あ、たえられた、情報に…そのような…ことは…ッ」
「…貴様らの常…識を、俺達にまで、はめ込むな。」


 呻きつつ夜独は確信した。なるほど、これで何故女神が男である自分たちを此方側の世界に行かせたのか解った。と、
 そう、自他共に認めるフェミニストのあの女神が、まさか女性陣にこんな苦境で仕事をさせるはずがないのだ。以前『男は雑草のように!!』と豪語していたその姿と、ふざけた言葉を裏切る真剣な漆黒の瞳を思い出して頬が引き攣る。あのクソアマ


≪大変だなぁ人間っつー生き物はよぉ脆弱で≫


 そんな夜独と翠の二人に、夜の闇が具象したならばこんな声だろうかと思わせる、低くけれど澄んだ、バイオリンの音に似通った声が一切憐憫など滲ませない口調でくつくつとさも楽しげに笑いながら言った。夜独と契約している魔王ルシフェルである。魔王である彼にとって、現世の重力や気候などはただの情報でしかないのだ。それを証明するかのように、膝裏までも長い紫黒の髪が常にゆったりと波打っている。


「っ、ふざ・・けたこ、と言ってない・・でッ、さ・・っさと、重力の、干渉を、消せ!!!」
≪しょうがねぇなぁ≫


 メチャクチャなその要求に、しかし魔王は渋々といったように溜息をわざとらしく吐きつつ『ほい』と指を鳴らした。その瞬間、翠と夜独の周りの重力がゆっくりと弱まり、その髪や服がふわりと風にはらむ。
 しかし、全身の細胞が引き千切られるような重圧感から逃れられ二人がほっ、と息を吐いたとき、≪今度は足が地面から離れ出した≫。


「?!な、なんだ?」


 今度はまるで空気のように軽くなった自身に翠が戸惑い現状を理解しようとするが、考えなくても夜独にはこれが誰の仕業か判っていた。契約者で遊ぶそいつに、さすがに青筋を立てて夜独が怒鳴る。


「ルシフェル!!」
≪んだよ騒々しいな、俺はお前の要望通りに重力の『干渉を消した』だけだぜ?≫


 つまり無重力状態にしたということだ。その言葉に翠がふわふわと宙に浮きつつ顎に手を当ててふむと頷いた。


「なるほど。確かにそのような指示だったな。」
「納得してる場合か……おいルシフェル!ふざけてないでいい加減降ろせ。任務が遅れる。」


 見当外れなんだか正しいんだか判らないことを言って頷く翠に怒鳴る気力も尽きたという風に呆れ、言った夜独に魔王はつまらなさそうに二人を地面に降ろした。彼らの周りの重力は、丁度地球と同じくらいに設定されたらしい。
 その慣れ親しんだ感覚にようやく安堵の息を吐き、改めてその自然溢れる世界を見渡し―――――リーダーに無理矢理任命された夜独は辟易と呟いた。


「で?敵って何処だよ。」
「俺は聞いてないゼ」
「そのような情報は与えられていない。」
≪ケケッ、いきなり迷子か?≫
「黙れルシフェル」
≪へいへい≫


 レイスレットは外方を向いて、翠は淡々と、ルシフェルは楽しそうに宙で胡坐を組んで言ったその台詞に眩暈を覚える。
 情報も満足に与えず放り出すとはまったく大した創造主だと胸中で悪態を吐き、それからはたと気がついた。
 ほぼ何でもありな創造主が、物語の停滞するような事態になっても何もしてこないということは、現時点ではまだ自分たちで解決できる状況だということだ。
 夜独はほとんど当てずっぽうで女神に指名されて選ばれたというレイスレットに向き直った。


「それで『寄生獣(パラサイト)』は何処だ?」
「あっち。」

 
 思ったよりもあっさりと言われて面々が目を瞠り、指差された眼前の森とレイスレットを見比べる。


「待て、確か貴様知らないと言っていなかったか?」
「人聞きの悪いこと言うなよ、俺は、『聞いてない』っつったんだ。」
「なるほど、確かにそう言っていたな。」
「納得するな…それで、何で知ってるんだ?」


 素直に頷く翠に再び疲労を感じつつ、あぁ面倒くさいと内心で呟きながら聞けば至極当然だとでも言うようにレイスレットが答えた。


「ぁん?匂いが違うだろが。」


 その答えに更に疲労を感じて溜息を吐く。このメンバー、会話が微妙に成り立っていないような気がするのは何故だろう。


「……………犬じゃあるまいし分かるわけないだろう」
「あ゛ぁ?犬っころと一緒にすんじゃねぇよ俺ぁ狼だ」


 むっとしたらしいレイスレットが金の瞳を剣呑に光らせて言う。
 ちなみにレイスレット達狼人族の嗅覚は人型であっても一般的な人間の二百倍はあったりするのだが、そのことを知らなくとも夜独には理解できた。一般的な狼と人であっても嗅覚や聴覚には大きな差があるのだから想像するに難くない。
故に、レイスレットの言葉に夜独は顔を顰めた。尚更人間の自分達に分かる筈が無いではないか。と、
しかし突っ込んでまた微妙にずれた討論をする気もない。こんな連中の面倒を押し付けるなんてあの女神は鬼か悪魔かと幾度目かの悪態を吐きつつ夜独はレイスレットに言った。


「…兎に角、案内は頼む。」
「りょーかい、リーダー殿」


 まるで内心を読んだかのような皮肉めいた呼び名に、夜独の顔が更に引き攣った。



―――――――任務はまだ始まったばかりである。





執筆:2006/09/15